骸骨と姫
骸骨と姫
冷たい。
そう、お姫様は思いました。
体の芯まで凍らせるような石の床に頬と掌をつけ、ドレスが汚れるのも構わずにお姫様はそっと瞳を閉じました。
瞳を閉じてしまえば、お姫様は静かに流れる時間を感じることが出来ます。
その間だけ、お姫様は自分が本当の自分でいられるような気がするのです。
父も母も生きていた頃、純粋に、ただ守られて笑っていた、憎むこともこの世の汚れも何も知らない、花のような自分に。
お姫様はふと瞳を開きました。
お部屋のドアの前に、一分の隙もなく執事の正装を身に纏った骸骨(がいこつ)が、ただ立ってこちらに顔を向けておりました。
それをみたお姫様は、一瞬で今まで感じていた幸せがどこかへいってしまったようで、心がざわざわと苛立ち、自然と眉根が寄ってしまうのでした。
「なに」
お姫様は乱暴に言って、骸骨を睨み付けました。
骸骨は何も喋りません。当然です。骸骨は動く以外は喋ることも、寝ることも、ご飯を食べることもなにもできませんでしたから。
薔薇の茨で檻(おり)された冷たい塔の上にお姫様と骸骨はおりました。
毎日毎日、きっちりと同じ時間に用意される食事、歩けるところは塔の中と庭だけ、代わり映えのしない日々に、お姫様は飽き飽きとしておりました。
なにより一番気に障るのが、一緒にいる骸骨です。
死んでいるはずの骨が動いている様は誰が見ても背筋にぞくぞくとしたものが走るほど気味が悪いもので、その色は黄ばんでいて触る気も起きない程汚らわしいとお姫様は感じていました。
「何の用」
それでも骸骨は何も言いません。お姫様は気づきました。食事の時間になっていたことに。
お腹はすいていませんが、食べなければ骸骨は何時間でもお姫様につきまといます。つかずはなれず、ただお姫様の近くに棒と立っているのです。それに比べれば、なにもいらないと拒絶する胃にむりやりものを押し込む方が、何十倍もましだと、お姫様は上半身を起こしました。
「ねぇ」
ふと思いつき、お姫様は両手を骸骨に差し出しました。
「起こして」
骸骨は微動だにしません。お姫様は更に心を苛立たせて、行き場のなくなった腕を下ろすと偶然手元にあったオルゴールを掴んで骸骨に投げつけました。
オルゴールは骸骨の胸にあたって、ごとんと落ちました。落ちた拍子にたどたどしく、優しい音楽が鳴り始めました。
お姫様ははっとしました。恋の歌。
それは、お姫様のお母様が、好んで聴いていた歌でした。
その音楽もなにもかもが気に障り、お姫様は苛立ちをどうすることも出来ずに骸骨の横をすり抜け、石階段を駆け下ります。
オルゴールが鳴る部屋からは遠く離れたはずなのに、懐かしい音楽はお姫様を離そうとしません。幾ども、幾たびも、澄んだ音はお姫様の心を取り巻きます。
お姫様の足は、自然と裏庭に向いていました。
小さい頃、沢山遊んだ裏庭。そこにある笑顔と思い出が、いまもお姫様の心を癒やすのです。
咲き乱れる花を縫うようにつくられた石畳の上をちいさな足が歩んでいきます。
薔薇のアーチの前にあるベンチの前で立ち止まり、お姫様はそこに腰を下ろしました。
裏庭までは歩けても、その先をみる自由はお姫様にはありません。あの骸骨がお姫様を閉じ込め、見張っているからです。
どれくらいの間、お姫様は骸骨とふたり、この塔に閉じ込められているのでしょうか。
青く凍える空は、ちっぽけなお姫様を見下ろして嘲笑(あざわら)っているかのようです。
お母様はおっしゃいました。この塔から出てはいけないと。この塔にいれば安全だからと。
けれどお姫様は思います。お姫様の知らない世界を見てみたいと。
背後から、骸骨が来たのがわかりました。食事をしていないのを知って、追いかけてきたに相違ありません。
お姫様は、太陽のまぶしさに睫を震わせました。
「ねぇ」
骸骨の返事はありません。
「手」
お姫様は手を差し出しました。骸骨は動かず、ただじっと立っています。お姫様は骸骨の手をみて、ふいにその手に触れました。骸骨がゆらりと動いたように感じたのは、気のせいでしょう。なぜなら骸骨は、手を握られようが、オルゴールをぶつけられようが、お姫様のことなどどうも思っていないに違いないのですから。
ごつごつとした骨がお姫様の柔らかな手を冷やします。
茶色と黄色の斑模様の骨。
お姫様は骸骨の顔を見上げました。
「汚い」
傷つけば良いと思って、お姫様は吐息をつくように酷い言葉を紡ぎました。骸骨の顔がお姫様の言葉に傷つき、憤り歪んだなら、お姫様はなにか新しい気持ちになれると思ったからです。
しかし骸骨はお姫様の手を振り解くこともなく、かといって握り返すこともなく、ただされるが儘(まま)でした。
お姫様はわかりきっていたはずの骸骨の態度に、傷つきました。
お姫様はこれ見よがしに骸骨の手を振り払うと、レースのハンカチで手を拭いました。何度も、何度も。
「おまえなんか、きらい。だいきらい!」
お姫様は立ち上がりました。
綺麗な花も、鳥の囀(さえず)りも、心癒やせるはずの全てが鬱陶(うっとう)しく、お姫様は湧き出る涙をこらえようと唇を噛みしめながら、走って部屋に戻りました。
はしたなく俯(うつぶ)せで、お姫様はベットに縋り付くように倒れ込みました。
嗚咽(おえつ)をあつい羽毛で覆っていたら、また背後に気配を感じました。
骸骨です。ここには、骸骨とお姫様しかいないのですから。
「わたしのことは、もう、ほおって置いて!」
お姫様は顔を上げないまま、叫びました。
「近づかないで。出てってよ。出て行って!」
けれど、やはり骸骨の気配は動く様子がありません。お姫様の声すら、もしかしたら聞こえていないのかもしれません。
お姫様はその愛らしいおめめがとけておしまいになるかと思われるほど、ずっと泣き咽せておりました。
いつのまにか泣き疲れて眠ってしまったようで、瞳を射す日の光でお姫様は目覚めました。部屋の隅には、陰鬱な影を纏(まと)った骸骨が立っておりました。
お姫様は立ち上がると骸骨の傍に歩いて行きました。朝の凍えた石床は刺すようにお姫様のやわらかな熱を奪いますが、お姫様はぐっとそれに抗うように、力をこめて一歩一歩、骸骨へと近づきます。
「ねぇ」
お姫様は骸骨の目の前に立ちました。
「…笑って」
骸骨の顔の骨は動きません。
「笑って」
もう一度繰り返しても、お姫様の白く凍える息が部屋にとけるだけです。
お姫様は手を伸ばして骸骨の手を取りました。
「冷たい」
一晩中そこに立っていただろう骸骨は凍え切っておりました。
お姫様はそれに失望しました。冷たい手しか持たない骸骨にも、その手が温かければ良いとそう願っていた自分にも、心の底から失望しました。
お姫様は興味を失ったかのように骸骨の手を離すとぷいと顔を背けました。
その先には窓がありました。青く遠い空。
太陽の光が優しく降り注ぎます。