Neverending Story
人の波に委ねるようにプラプラと歩き出したところに、携帯がなる。
元妻、章子からだった。
「はい…」
「私よ。分かる?」
「あ、あぁ……」
「久し振りね。元気にしてた?」
「あぁ…、まあ……」
「今、仕事中?」
「今は…、あ…いや…。出先だから、大丈夫だ」
妻と別れて9ヶ月。
突然の電話に、高瀬は戸惑う。
休みを貰って尾道に来ていることを、元妻に言おうかとも迷ったが今更知らせる義務はない。
高瀬は口を噤(つぐ)んだまま、元妻からの言葉を待った。
「あのね、話があるんだけど、今夜、時間貰える?」
「話し?」
今頃、なんだというんだ。
君は、勝手に離婚届を置いて出て行ったじゃないか。
何度、こちらから電話をしても出てくれない。
それが、今頃になって―――。
そう言い出しそうになるのを必死に堪える。
こんなとことで、そんなことは言いたくない。
理性が高瀬を慰める。
「そう、話し…。会って、あなたに話したいことがあるんだけど、ダメ…?」
「悪い。暫くは時間が取れそうにないんだ。今、電話じゃダメなのか?」
元妻が黙った。
その静かな時間、高瀬は色々なことを考えた。
今になって、恨み辛みを言う気なのか。
それとも、この期(ご)に及んで慰謝料が欲しいとでもいうのだろうか。
どちらにせよ、高瀬にとっては不都合な話しでしかない。
「そうね…、分かったわ…。―――あのね?もう一度、もう一度あなたとよりを戻せないかと、思って…。勝手なこととは分かっているの。でもやっぱり、私にはあなたしかいないってことに、こうして離れて、初めて気付いたのよ…。だから…」
そう言って、章子が言葉を詰まらせた。
泣いているようにも思えた。
突然の元妻の告白に高瀬は息を飲んだ。
まさか、そんなことを言われるとは思ってもいなかったのだ。
高瀬は、どう返答をしたら良いものかと悩む。混乱していた。
「ねぇ、あなた?聞いてくれてる?」
黙ったままの高瀬に不安を覚えたのか、元妻が問い掛ける。
「あ、あぁ…、き、聞いてるよ…」
「ちゃんと会って、私の話し、もう一度聞いて貰えないかな?ダメ…」
「あ、あぁ…。考えてみるよ」
「ホントに?」
「あぁ…。近く時間を作るから、もう少し待っててくれないか。それに、気持ちの整理もしたいし」
「そうね。そうよね。急にそんなこと言われても、浩康さん、困るものね…」
「あ、あぁ…。悪い。必ず、連絡をする」
「うん、待ってる。必ず、電話してね。私、待ってるから」
あぁ…。
と言って、電話を切った。
途端に、雑踏の騒々しい雑音が高瀬の耳に飛び込んだ。
陽射しは相変わらず強いのに、指先だけがやけに冷えていた。
心もしんとしている。どうしてだろうか。
あれほど待ち侘びていた、妻からの電話。
未練たらしい気持ちは少なからずあった、はずだ。
だから、別れてもう9ヶ月もなろうとしているのに、未だに立ち直れない自分と日々闘っている。
それなのに、何故か飛び跳ねて喜べない自分がここにいる。
いや、それとも実感がないだけなのだろうか。
これが、面と向って言われたならきっと今の気持ちとは異なっているかもしれない。
自分は間違いなく章子を許し、いいよ、と即座に答えているだろう。
そして、ずっと出しそびれていた離婚届を破り捨てるのだろう。
それぐらい嬉しいことなのに、何故か喜べない。
それよりも、たった今起きた現実が、遥か遠くの出来事のように思えるのだ。
しかし、もしこれがちゃんと章子と会って章子の口からもう一度聞いたなら、たぶん現実味を帯びるのかもしれない。
よりを戻すも戻さないも、まずは会ってから考えた方がいいだろう。
だとしたら、早く帰って章子に連絡を取らなくては。
そうだ。その方がいい。
そう思ったら、高瀬は早く章子に会いたくなった。
やはりまだ、高瀬は妻を愛している。
でなければ、こんな気持ちも湧かないのだろう。
高瀬は、ずっと離婚届を出さないまま持ち続けていた。
勿論、未練もあった。
しかし、突然出て行ってしまった妻と、高瀬はどうしても話し合いたかったのだ。
それからでも、届けを出しても遅くはないはず。
いや、本当はやり直すための話し合いをしたいと思っていた。
でも、だからといって既に離婚の気持ちが固まっている妻と話し合ったところで、どうにもならないことは鈍感な自分にだって分かっている。
けれど、自分に納得しない限り、前に進めないような気がした。
事実、そうだったのだから。
だから、届けを出さないまま9ヶ月という月日が過ぎていった。
小さなプライドも、今思えば虚しいだけ。
高瀬は、そろそろ決心しなくては、と思うものの、揺らぐ心に踏ん切りもつかず、なら旅行でもして気持ちを整理しよう、と単純な考えでここに旅立っていた。
妻と来た、想い出の場所に。
なのに、その想い出の場所だというのに、記憶から削ぎ落とされたように一切覚えていないのは何故だろう。
だいぶ時間が経ち過ぎているから。
いや、ここの雰囲気が変わってしまったから。
それとも、離婚を言い渡された時から、章子との想い出を無理矢理消そうとしたから。
ひとつの恋が終わるたびに、自分は過去を消していく。
想い出が何も残らないように。
そうすることで、傷を浅くする。
自分を守るために。
そんな矢先、妻からの電話。
優柔不断な心は更に揺ら揺らと揺れ動き、高瀬の心を複雑なものにする。
けれど、どんなに悩んだとしても高瀬の心は決まっていた。
たぶん、自分は妻を許すだろう、と。
こうしている時だって、やはり章子のことを考えている。
ずっと、章子に恋をしているのだから仕方のないことなのだけれど、綺麗な景色を見たり、面白いものを見つけてそれが楽しかったとしても、やはり何かが足りない気がする。
人の波に身を置いた時だって、孤独を感じてしまうのだ。
そして何より、ここにいるはずもない章子の影を追い掛け、探し当てようとする。
そんなどうしようもない自分がいるのだから、情けない。女々しいのは重々承知の上。
それが、本当の自分の姿なのだ。
そう結論付けた高瀬は、深く深く息を吐き、そして握り締めたままの携帯をしまった。
少しだけ心が軽くなったような気がした。
作品名:Neverending Story 作家名:ミホ