おちていく…
そう思ったら、愛子の心が急激に醒めていくのが分かった。
遊ばれて捨てられる女だけにはなりたくない、って思っていた。
だから―――、というより、もしこの恋が実ったとしても、不倫は不倫。
自分は、どのみち叶わない恋でいい。
愛子は揺らぐ自分の心に、もう一度歯止めを掛ける。
「な〜んて、驚いたか?」
矢田が冗談交じりに笑った。
えっ…?
矢田の子供っぽい笑い顔を、愛子は見つめた。
「でもな、人生、どこで恋に落ちるかなんて分かんないんだよな。真面目そうに見える男でも、実のところ、めくるめく恋がしたい、って思っているヤツもいる。恋に興味なさそうな男に限ってな
…」
フッと笑い、矢田はグラスに残った酒を一気に飲んだ。
「それって、課長のこと?」
たぶん、聞いちゃいけないんだろう。
でも、愛子は聞かずにいられなかった。
「さぁ?俺は、真面目でもないし、好き勝手に生きてきたから、どうだろうな…」
「課長から真面目を取ったら、何が残るの?」
愛子は、会社にいる真面目な矢田の姿しか知らない。
それに、こんな一面があると知ったのは、たった今だ。
だから、矢田の不真面目な姿を思い出そうにも、まったく思い浮かばなかった。
「俺が、真面目か…。まあ、いい。そうなら、そうしておこう」
と矢田が呟いた。
愛子は分からなくなっていた。
どれが本当の姿なのか、が。
「じゃ、そろそろ帰るか。青山」
マスター、お会計!
そう言って、矢田はおもむろに立ち上がり、財布を取り出した。
愛子は言葉が見つからないまま、ただぼんやり矢田の横顔を見つめた。
「どうした、青山?帰るぞ」
「あっ…?はい…」
矢田に呼ばれ、愛子は我に返る。
「マスター、ご馳走さん!」
矢田は軽く手を上げ、先に店を出ていく。
「ご馳走様でした」
慌てながら愛子もマスターに挨拶をして、先に行ってしまった矢田を追い掛けた。
「じゃ、気を付けて帰れよ」
「あ…。ご、ご馳走様でした…」
愛子は、矢田に軽く会釈をした。
「じゃ、また明日」
矢田は手を上げ、あっさり家のある方角へと向かって歩いていった。
愛子はその矢田の背中を、ぼんやり眺めていた。
あんな話をするから、ちょっとだけ期待してしまった自分に腹が立った。
そして、恥ずかしくなった。
「アタシ、何考えてるんだろう…」
そう呟いて、フッと笑った。
こんな短時間で、恋に落ちたというのだろうか。
恋をしちゃいけない人に―――。