おちていく…
「青山?好きなもの、沢山頼んでいいぞ!」
そう言って、矢田は上機嫌でジョッキのビールを喉を鳴らし飲んだ。
好きな所に連れてってやるぞ。
と言ったのに、矢田は愛子を会社の近くにある居酒屋に連れてきたのであった。
なんだよ、居酒屋かよ…
と愛子は、思わず悪態づいた。
「なんだ?なんか言ったか?」
「い、いえ…、何も。それより、課長もこんなとこに、来るんですね?」
「こらこら、こんなところと言ったら失礼になるじゃないか」
あっ?
まずい、と思った愛子は、思わず目が合ってしまったマスターに軽く頭を下げて謝った。
小ぢんまりとした、店内。
会社帰りの常連客が一杯という感じで利用する、フツーの居酒屋だった。
小上がりには数組の客と、カウンターには二人の客が離れて座っていた。
大きめの音量のテレビには、今日の野球のハイライトシーンが流れ、
その結果について解説者が独自の持論を熱心に語っていた。
そのテレビを、カウンターに座る二人のサラリーマンが食い入るように見つめている。
「なんだよ〜!また、負けたのかよっ!クソッ!」
一人のサラリーマンが、その結果を見て怒鳴った。
すると、店のマスターが、まあまあ、と言ってそのサラリーマンをなだめる。
そして、サービスだよ、と言って一升瓶の酒をそのサラリーマンのグラスに注ぎ足したのだった。
矢田と愛子は、そんな常連客に交じり、カウンター席に座っていた。
「ここは焼き物が上手いんだ」
そう言って、矢田はメニュー表を見ずに、勝手に何品か注文しだした。
好きなもの、頼んでいいぞ。
っていう言葉は、ここでも嘘だったらしい。
飲み物だって、店に入るなり
「マスター、生2つ」
と勝手に注文されてしまったのだから。
食べたいものを愛子に聞くことなく、注文された料理は次々にカウンターに並べられていった。
「さぁ、遠慮せずに食べろよ」
屈託のない矢田の笑顔に、愛子は戸惑った。
会社では見たことのない顔だったから。
矢田がお勧めの焼き物がのった皿を、矢田は愛子の前に置いて、自分はビールを追加した。
矢田のお勧めだけあって、料理はおいしかった。
愛子は空腹だったお腹を、一気に満たす。
「青山は、よく食べるな〜」
「そうですか…?」
矢田はビールから日本酒に変え、料理にはさほど手を付けずに酒を味わうように飲んでいた。
矢田が淡々と飲む隣で、愛子はただ食べるしかなかった。
どうせ合う話題もないだろうし、無理に話しを合わせてもらっても迷惑だと、
愛子は思っていたからだ。
だから、食べるしかなかった。
「だって、課長が、食べろ食べろって言うから…。それに、残したらもったいないし…」
ビールが苦手な愛子は、矢田が勝手に注文したビールを何とか飲み干した。
そして、矢田にまた勝手に注文される前に自分で頼んだ酎ハイをグイッと飲む。
「もったいない、か。なんか、青山らしいな…」
矢田が、クスッと笑う。
「私らしい…?私らしいって、何ですか〜?かちょ〜」
お酒の力もあって、愛子は少しずつ矢田と自然と話せるようになっていた。
「気にするな、青山。いいから、沢山食べなさい」
矢田はまだ手付かずの料理を、愛子の前に置いた。
「もう私、食べれませんよ〜。かちょ〜、頼みすぎ」
「なら、持って帰れ」
「え〜」
矢田は否応もなしに、マスターに残った料理を折に入れてくれるよう頼む。
また、勝手に…?
愛子は、また矢田に従うしかなくなった。
「なんか〜、課長って、不思議な人ですね…」
優しいのか、ただ強引なだけなのか分からない矢田に、愛子はついつい呟くように言ってしまった。
「不思議?何がだ?」
愛子の問いに、矢田は不思議そうな目で愛子を見つめる。
「あ……、その…」
愛子は何と答えていいのか分からず、んん…、と唸ってから
「ただ…何となく…」
と曖昧な受け答えをした。
「何となく?って、気になるじゃないか〜。青山?」
矢田は愛子の座るイスの背もたれ部分に手を置き、愛子に顔を近付けた。
かなり酔っ払っているらしい。
「かちょ〜。近いし、怖い…ってば…」
反射的に愛子は、矢田から躰をそらし逃げた。
矢田に見つめられるたび、愛子の心は不思議な感触を帯び始めた。
矢田の瞳は、愛子の心を掻き乱していく。
そして、いけない恋へと勝手に誘(いざな)うのだ。
夜の力。
酒の力。
そして40代の男が醸し出す、雄の力。
それらが一致した時だけ、女は恋に落ちるのかもしれない。
それは、魅力のない萎(しな)びた男だとしても。
雄として自信をなくした、男でも。
なんの撮り得もない、ダメな男でも。
ふとした瞬間の仕種だったり、表情だったり、優しさだったり、強さだったり、
を見せられてしまうと、素敵に見えてしまうものだ。
女はそのふとした瞬間を見てしまうと、また見てみたい欲求が高まる。
そんな情欲が一度芽生えてしまうと、その男が気になり始めて、ついつい目で追ってしまう。
だって、もしかしたらその仕種や表情は自分だけしか知らない"あなたの顔"だと思いたいか―――。
愛子は矢田から視線をそらし、氷だけになったグラスの氷水を飲んだ。
グラスが傾くたび、氷はカラカラと音を立てた。
「課長、こんなに遅くなっていいんですか?奥さん、心配しますよ〜」
居心地の悪くなった愛子は、話しを変えた。
この男は"妻帯者"だということを、愛子は自分に再認識させるために
『奥さん』の話しを持ち出したのだ。
矢田は腕時計を見てから、
「んん?もうこんな時間か…。うちの家内は、もう寝てるんじゃないか〜」
ウチノカナイ……
矢田のその言葉に、愛子の心がチクッと痛む。
好きでも何でもない男に、なんで?
私は、どうしてしまったんだろう…。
まだ見たことのない矢田の妻に、愛子は嫉妬を覚えていた。
恋に落ちるには、あまりにも早すぎる。
それに、こんなにあっけないものなのか?
愛子は混乱する。
なんで、好きでも何でもない人に?
なんで…?と―――。
「課長って、子煩悩で愛妻家だって、みんな、課長のこと褒めてましたよ。だから早く、家に帰らないとダメですよ〜」
そう言って、愛子は無理に明るく言った。
「そうか?案外、みんな騙されやすいんだな。というか、そう見せている俺の演技が上手いのか」
そう言って、矢田が短く笑った。
「や、やだな〜。かちょ〜、何言ってんですか?実際、家庭を大事にしてるじゃないですか?いいな〜、奥さんが羨ましいな〜。家庭も仕事も大切にする、ダンナ様を持って…。私も、早くそうい
う人探さないとな〜」
愛子は、矢田の豹変ぶりに焦る。
会社にいる矢田は、性的匂いを感じさせないくらい紳士的というか、中性的な姿しか見せない。
というより、奥さん以外、興味がないんだと思っていた。
けれど、矢田の冗談なのか本気なのか分からない話に、実際はどうなのか、と愛子は更に混乱する。
奥さん以外にも、彼女がいる、ってことだろうか。