おちていく…
「か…課長?」
愛子は、堪らず矢田を呼んだ。
「どうした、青山?終わったのか?」
矢田はガラス越しに映る愛子を見るのではなく、後ろを振り向き愛子を見つめた。
「あっ、いえ…。その…、私、もうすぐで仕事が終わるので…さ、先に帰っても大丈夫ですよ…」
「そうか。でも、さすがに部下を置いて、先に帰るのはな…。もう、こんな時間だし」
そう言って、矢田は腕時計を見る。
「でも…、その…」
「いいから、早く終わらせなさい」
「………はい」
矢田の少し怒った声に、愛子は諦めたように小さく返事をした。
なんで、こんな時にだけ…?
いつもなんて、勤務時間が終わったらさっさと帰るくせにぃ〜
と、ついグチがこぼれた。
けれど、さすがに堂々と言葉に出すわけにもいかず、愛子は心の中で呟くだけだった。
愛子は、この広い広い空間に矢田と二人きりでいることに、居心地の悪さを感じていた。
そして、この居心地の悪い場所から早く抜け出したくて、急いで仕事を片付け始めた。
保存してから、プリント、と…
そうして、愛子は今出来上がったばかりの書類に目を通して確認する。
え〜と、間違いはないな…
よし、終わったぁ…。
そう呟いて、愛子は浅く息を吐いた。
そして、簡単に書類を整理してから、パソコンの電源をおとした。
「終わったみたいだな?」
愛子は、声のする方へふいに目をやると、すぐソバに矢田の顔があった。
キャッ…
さっきまで遠くにいた矢田が、突然近くに現れたことに、
愛子は驚きのあまり短い悲鳴を上げ、持っていた書類を落としてしまった。
書類は面白いようにハラハラと散乱して、床一面に絵を描いた。
「な、なんだ?そんなに、驚かなくても…」
矢田も愛子の声で驚き、顔を引きつらせた。
「ご、ごめんなさい…。なんか、その…」
愛子は落とした書類を、慌ててかき集める。
「書類、全部あったか?」
そう言って、矢田は拾った書類を愛子に渡す。
「床に残っていなければ…、たぶん…」
愛子は書類が残っていないか、机の下を覗いて確認をする。
「大丈夫みたいです…」
愛子は矢田に、お騒がせして、すいません…、と謝ってはにかんだ。
「そうだ、青山?腹減んないか?」
と突然、矢田が愛子を誘う。
「えっ…?」
「飯でも行こう。お前の好きな所に、連れてってやるぞ」
矢田の突然の誘いに、愛子は戸惑った。
「あの…、そのぅ…」
矢田の誘いに、愛子は何て断ろうか、と考えた。
別に、予定はなかった。
それに、矢田は嫌いな上司でもないし尊敬している。
けれど、時々何を考えているか分からない目をされると、どうしても近寄りがたく感じるのだ。
そんな矢田と二人きりで食事となると、気が重たいと思った。
この息苦しさがまだ続くのかと思うと、どうしても心が拒否をする。
「早く用意をしなさい。行くよ」
矢田は愛子が行くものと考え、さっさと帰り支度をしている。
「えっ?あ…、はい…」
もはや、愛子には選択権はなくなってしまったらしい。
素直に、愛子は言われた通り帰る準備をするのだった。