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おちていく…

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「私、青山愛子と申します。課長には、いつもお世話になっております。今、お少しだけお話しさせて頂いても宜しいですか?奥様」

愛子は矢田と逃げることを約束した次の日、矢田の妻に電話をした。


「何でしょうか?」

突然の愛子からの電話に、妻は怪訝な声を出した。

「突然のお電話で驚かれましたでしょ?大変失礼致しました。早速ですが、本題に入らせて頂きます。私、課長に付きまとわれて大変迷惑をしています」

「そうですか。それで、私にどうしろと?」

「奥様はご存知でしょうか?課長が、何人者の会社の女子社員を口説いていることを?そして、付き合っていることを?」

「女子社員と?いえ…」

妻は初耳といった感じで驚いた。

「そうですか…」

「ま、まさか?会社でそんなことを…?部下や素人の女の子には、間違っても手を出さない、っては言ってたのに…」


部下や素人の女の子には?

愛子は妻の言葉を聞いて、困惑した。

浮気は黙認していた、ということになる。

けれど、あんな真面目そうに見えた矢田が、クラブや風俗通いをしていたなんて、と思ったら、

愛子に憎悪にも似た嫌悪感が芽生えるのだった。

所詮、男は男、だっただけ。

素人でも、玄人でも、快楽に溺れる矢田がとても滑稽に見えた。


「では、付き合っていた女性はキャバ嬢や風俗嬢の方達だと、思っていらっしゃったんですね?」

「はい…。だから、まさか、そんな…」

妻の声が落ち込む。

「突然ですが、奥様は課長のことを愛していらっしゃいますか?」

「な、何ですか、突然…。勿論です」

「なら尚更、課長のことをしっかり見てて貰わなければ困ります」

「そんなこと、あなたに言われなくとも分かっています」

愛子の言葉に、妻はカチンときたらしく、語気を荒らげた。

「では、三日後に課長が家族を捨てて、女と逃げることを御存じですか?」

えっ…?まさか…

そう言ったまま、矢田の妻が黙った。

「その様子じゃ、知らない様子ですね。課長は間違いなく、奥様とお子さんを置いて、会社も辞めて逃げるそうです。私は、その彼女に聞いたので、間違いありません。辞表も用意しているそうです」

「ま、まさか…」

妻はやっとの思いで声を出した。

「その女性は、課長と逃げることを拒否しています。しかし、拒否をすれば今の課長はその彼女を殺すでしょう。一度、別れ話しをしたところ、殺されそうになりましたから…」


愛子の話を聞いて、矢田の妻はため息を吐いたあと鼻で笑った。

「それで?私にどうしろと…?」

愛子の話を聞いて、すべてを察したらしい。

「奥様は、課長を永遠に自分のものにしたいと思いませんか?」

「えぇ、それは勿論。でももう、私は今の暮らしの方がいいわ」

「束縛から解放されるなら、誰かにあげる。そういうことですか…?」


言葉に詰まる愛子に、すかさず矢田の妻が言う。

「あなたも苦労しているんでしょ?青山愛子さん?」

と、何故か楽しげに言い放った。

「課長の相手が私だとお察しですか。そうですよね…。こんな電話をするんですからね」

「ここ暫く、あなたのお陰で私はラクだったわ。私は、子供と生活費さえあればいいの。だから、あなたにあげる」

「さっきも言った通り、困るんです」

「それは、あなたの見る目がなかったということで諦めたら?私も人のこと言えないけど…」

「随分なんですね…」

「何とでも言って。私もあの人には、何度も殺されそうになったのよ。もう限界なのよ。何度、あの人を殺してやろうと思ったことか…。でもそんなこと、口が裂けても言えないわ。あの人が聞いていたら、またどんな暴力をふるわれるか…」

「大変でしょうね…」

そう言って愛子は、今までの会話を録音していたレコーダーを受話器に近づけた。

「あなた…。私を脅すつもり?」

「それは、奥様のご判断にお任せします」


「あなたって人は…」

そう言いかけて妻は、フフッと鼻で笑った。

「で、何をしたらいいの?」

諦めにも似た声で、矢田の妻は愛子に聞いた。


「奥様が今、言ったじゃないですか?」

「な、何を?」

妻は息を詰まらせた。

「もしかして、あなた…。夫を?」

「私達が自由を求めるとしたら…それしかありませんよね?」

「そうね…。どのちみち、私には選択の余地はないんでしょ?その代わり、失敗は許さないわよ。それに、捕まるとしたらあなただけ。それくらいは、私にもメリットがないと手を下すのはイヤよ」

「勿論ですよ。課長には、事故か自殺でこの世を去って貰わなきゃ、私も困りますから」

「あの人も、最悪な女と出会ったものね…」

「引き返すなら、今の内ですよ。自由な生活を送るか不自由な生活を送るかは、奥様の自由ですから」

「で、私は何を?」

「二日後、お宅の近くにある橋に来て下さい。私も課長と一緒に行きますから」

「夫と?」

何を言っているの?

というふうに、妻は声をあげた。

「夜の11時。いいですね。来て頂ければ分かります。じゃ、二日後に」

そう言って愛子は、妻の電話を一方的に切った。


今頃妻は、どんな顔をして受話器を握っているのだろうか…。

愛子は、妻の顔を想像した。

けれど、想像が出来なかった。

矢田の妻と会話を終えた愛子の手は震えていた。

冷静だったはずの心は、思った以上に緊張をしていたらしい。

鼓動が早くなって、うまく息が出来なくなっていた。







作品名:おちていく… 作家名:ミホ