おちていく…
― 三日後 ―
いよいよ今夜、矢田と愛子の新しい人生が始まる。
住む場所も決めたし、荷物もある程度纏めた。
明日からは愛人でも、二番目でもない。
隠れて付き合う必要もなくなるのだ。
そう思うたび、愛子は何故か不思議な感じがした。
一度でも愛人を知ってまうと、躰がフツーの恋愛を拒否するのだろうか。
嬉しさと不安がない交ぜになって、愛子は複雑な心境だった。
「愛子、大変!」
同期の吉田香織が血相を変えて、愛子の元に駆け寄ってきた。
「おはよう、香織。朝からどうしたのさ?そんなに慌てて」
バタバタ走る香織の姿が面白くて、愛子は笑った。
「な、何、悠長なこと言ってんの、あんたは!」
香織は、呑気な顔で笑う愛子に怒った。
「あんた…、って?」
愛子は、苦笑いしながら呟いた。
「か、か、課長が…」
香織は愛子の両腕を掴み、顔を見つめたまま言葉に詰まった。。
「課長が、どうしたのよ…?香織…?」
「愛子!本当に知らないの?」
「だから、課長がどうしたの?」
今日、一緒に逃げることがバレた?
なんて愛子は、少し不安になった。
「課長が…課長が……亡くなったって…」
そう言い終わったあと、香織はその場に座り込んだ。
「亡くなったって…ホントに?ねぇ、香織って、香織ってば?」
その場に座り込む香織に、愛子は必死に聞いた。
しかし香織は、ただただ首を振って泣くばかりで会話にならない。
愛子は詳しいことを聞くため、たまたま通り掛かった主任を見つけ走って呼び止めた。
「主任!待って下さい」
急に愛子から呼び止められた主任は、転びそうになりながら止まる。
「あっ?青山君。どうした?ちょっと今、忙しいからあとでいいか?」
「か、課長が…亡くなったって本当ですか?」
「あ、あ…。本当だ…。今、それで忙しいんだ…。悪いが…」
「原因は…?」
「僕もまだ詳しく分からないんだが、川に落ちたみたいで…」
「川?」
「あぁ。事故か自殺か分からないから、今、警察が調べている途中らしい。でも、事故じゃないかって…」
「事故?」
「あぁ。課長、だいぶ酔っ払っていたらしくて…。多量の飲酒が認められたらしんだ」
「お酒…」
「あ、青山君…。もういいか?じゃ」
主任はまた急ぎ足で、どこかへと走っていった。
課長…
約束は…?
今日の、約束は…?
課長…
良一さん…
愛子はしばらく、その場に佇んだ。
断片的に浮かび上がる矢田の顔。
笑った顔。怒った顔。
泣いた顔。しかめっ面をする顔。
優しい顔。悲しい顔。
そして、哀愁漂う背中。
もう矢田は、この世にいない。
もういないのだ―――。