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「1つ目。あなたは確かに社会人で、自立しておくべき立派な大人だけど、まだまだ若い。それに、何歳になろうが、人生なんてものは誰もが初挑戦。悩むこともあれば、失敗することがあるのも当然。だから、自分がどうしようもない人間だなんて、責める必要は全く無いの」
歯をくいしばって、村田はゆっくりうなずいた。
「2つ目。あなたは、あなたの恋人が別れを選んだことを、たくさん考え抜いた上での結論だと思っているのかもしれないけれど、あたしはね、結構、衝動的なものだったんじゃないかって、思うの。確かに、彼女は悩んでいたでしょう。苦しんでいたでしょう。だからこそ、その状況を打開したい衝動から、あなたに思い切ったことを言ってしまったんじゃないかしら。なあなあな態度の彼氏が、自分のことを本当に必要としてくれているのか、はっきりさせたくてね。自分が思い切って何か言えば、あなたも思い切ってくれるんじゃないかって。女の子ってそんなものよ。おほほほほほほ」
村田は、はっとした。そのような視点からは考えたことがなかった。自分は結局、悩んでいるつもりでいながら、自分を責めて楽になることに精いっぱいで、全く彼女の立場に立っていなかったのだ。また情けない気持ちになって、本当に涙がこぼれそうになった。
「3つ目。いい? これから言うことは、50年以上生きてきたおばさんの経験則よ。よく聞いておいて。人生は困難の連続。生まれたくて生まれてきたわけじゃないのに、何でこんなに苦しんだり、悩んだりしなければいけないんだって、嘆きたくなることもある。困難の全てと戦う必要はないの。自分の人生は自分のものなんだから、逃げたければ逃げるのも自由よ。ただね、これだけは言える。自分の人生で一番大切にしたいものくらい、自分で選んで、自分で守りなさい。そこからだけは逃げちゃ駄目。そこから逃げて幸せになった人を、あたしは知らない。たった一つ、守れば、あとのことは自然に上手くいくの。もしあなたが、あなたにとって一番大切なものは何なのか、本当はもう気付いているのなら、それを守る覚悟だけは決めなさい。以上」
言い終えると岡野部長は、村田の肩を軽く叩いた。その物理的刺激に反応したかのように、村田の目からついに涙がこぼれおちた。村田はすでに感極まっていたが、声を出して泣くのだけは恥ずかしいという理性が辛うじて働き、嗚咽を噛み殺すように泣いた。
「ありがとうございました。本当にありがとうございました」
頬笑み続ける岡野部長に、村田は震える声でお礼を言った。大仏のような岡野部長には、アルカイック・スマイルがよく似合った。
「いいのよ。おほほほほほほ。さて、もう少し時間もあることだし、リフレッシュの続きをしましょうか」
え、と思った瞬間、村田は気付いた。自分は、勃起している。
「おほほほほほほ。半世紀生きている女の手練手管を舐めちゃだめよ。舐めるならおっぱいを舐めてって、さっき言ったでしょ。おほほほほほほ。じゃあ、ここからはあたしの番ね」
水泳の飛び込み選手のような勢いで、岡野部長は村田に覆いかぶさった。為す術もない状況とは、このことである。
自分は断じて欲情などしていない。バイアグラが遅れて効いてきただけだ。そうに違いない。村田は自分に言い聞かせながら、岡野部長の愛撫を無抵抗に受け入れる。
○
50分ほど電車に乗った。村田は、工場から100km近く離れた所にある市役所の、門の前に立っていた。市役所の建物構えは決して立派なものとは言えず、もう何十年も改修工事がされていないのだろうと、村田は思った。
おもてなしの任務を終えた村田は、デスクワークをしばらく行い、15時頃、体調が悪いと言って会社を早退した。仮病だった。明日は朝6時に出社して、溜まった仕事を消化しよう。今日はもう、いてもたってもいられなかった。大変な役回りを押しつけてしまったことへの負い目もあってか、課長は村田の早退を快く認めてくれた。
市役所自体が駅から少し離れた位置にあるため、人通りが少ない。時刻は17時を過ぎた。そわそわして、見ても仕方がない腕時計の時刻を、何度も確認してしまう。煙草を吸って落ち着きたい。村田は、煙草の代わりに深く息を吸って、目を閉じながらゆっくりそれを吐き出した。
視線を建物の方へ戻すと、見慣れた人影がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。何人もの人間の「相手」をしたからであろう、肩まで伸びた髪が乱れている。うつむきながら歩いていたその人は、ふと顔を上げた瞬間に、村田の存在を認識したのか、そこからは視線を村田の方に固定して、状況を飲み込みきれていないような、頬笑み混じりの戸惑った表情を浮かべつつ、近付いてきた。
「ひさしぶり」
村田の1m手前で立ち止まった富永千穂理が言った。千穂理の第一声は「なにしてんの?」だと村田は予想していたが、外れた。
「ちょっと、話がしたくて、来た」
緊張で、言葉がスムーズに出てこない。息が詰まっている。たった一ヶ月合わないだけで、5年間一緒にいた人との自然なコミュニケーションの仕方を、すっかり忘れてしまった。
「会社は?」
「早退してきた」
警戒の表情を一気に崩して、千穂理は軽く吹き出した。村田もつられて笑った。