Refresh
星一つ見えない曇り夜空の下、部屋のベランダにしゃがみ込んで、村田はまた煙草を吸っていた。夜は自己嫌悪が一周して、感傷的な気持ちに酔いしれる。駄目な人間の典型だと、自分でもわかっていた。
結局あの後、2時間ものあいだ、リフレッシュに興じてしまった。何人の女性と体を交えたか、自分でも覚えていない。精も根も尽き果てた帰り道、ふと視界に入ったカーブミラーに映る自分の顔が、とてつもなく幼稚で、情けないものに見えた。
千穂理は、自分のような駄目な男とは、早々と別れた方が幸せだったのだろう。彼女はいなくなった。もう、守るべきものは何もない。自分が全てを投げ出しても、不幸になる人間はいない。仕事もやめたいな。やめてしまおうか。ここは先進国だ。駄々をこねて働かずにいたとしても、きっと誰かが自分を守ってくれる。少なくとも、餓死してしまうようなことはないだろう。美味しいものを食べたり、旅行に行ったり、そういうことは諦めないといけないかもしれないが、仕事の苦痛を差し引けば、その方がむしろ幸せなんじゃないだろうか。
自分のこんな考えを、実家の両親が聞いたら悲しむだろうか。生きていくのがこんなに大変だとは、子どもの頃は思わなかった。自分を育てあげた両親は、それだけですごい。働くことから逃げたら、自分が育ってきたような幸せな家庭生活を、大切な人と共に築くことも、諦めなければならないのだろうか。
村田は、何かから身を隠すようにベッドに潜り込んで、目を閉じた。残酷な朝よ、どうか明日こそは、やってこないでくれないか。どうしてもまた朝が来るというのならそれでもいい。ただし、自分は何か別の存在に生まれ変わっていてほしい。いっそ人間でなくてもいいぞ。オーストラリアのコアラなんかが良いな。ずっと木にぶら下がって、ユーカリの葉を食べて、毎日ストレスも無く過ごし、気が向いたら雌コアラに覆いかぶさって――。
○
村田篤は、アパートの部屋で、富永千穂理と電話をしている。二人は仲の良い、恋人同士だ。電話で二人は、次の週末は水族館に行こう、それまでお互い仕事を頑張ろう、などと励まし合っている。
やがて、名残惜しみながら村田は、「またね」を言って電話を切った。背後から、テレビのニュース番組が始まる音が聞こえる。振り返ると、テレビ画面に、「公務員の女性、行方不明」のテロップが映し出されていた。市役所でリフレッシュワーカーの仕事をしている時に、来訪者によって拉致されたものと思われると、アナウンサーが話している。行方不明の女性の名前は、富永千穂理だった。
村田は部屋を飛び出し、あてもなく走った。千穂理の名前を呼びながら、もつれる脚を、辛うじて交互に前へ出した。しかし、千穂理はどこにもいない。気が付けば、目の前の景色は、前後左右360度、真っ暗になっていた。村田はその場にしゃがみ込み、泣き崩れる。もう駄目だ。諦めよう。ここにじっとうずくまって、動かないことに決めた。暗闇が自分を溶かして、飲み込んでくれるのを、ここでただひたすら、待っていることにしよう――。
○
村田は猫背気味の姿勢で、駅から会社に向かっていた。とてつもなく体がだるい。昨夜は内容の濃い悪夢を一晩中見続け、熟睡できなかった。朝起きたときの気分は最悪で、会社を休んでしまおうかとさえ思った。しかし、とてもそんなことはできない。仕事が山ほど溜まっている上に、今日は重要な任務を任されている。岡野部長の「おもてなし」だ。
会社に着いてデスクに向かう。メールチェックなどの機械的な作業をこなした後、席を立ち、フロアに設置されてある給水器に向かう。そこで紙コップ一杯の水を汲み、部内の共有備品コーナーに向かった。引き出しを開け、バイアグラの瓶を取り、一粒を服用する。このバイアグラは、普段は課長クラス以上のおじさん達が使用している。以前、溜まった仕事を片付けるため早朝に出社したとき、フロアに入ると、まだ三十代半ばの竹中係長がこっそりこのバイアグラを摂取している場面に出くわし、とても気まずい思いをしたことがあった。村田は下半身の事情に関しては何も問題を抱えていなかったが、今日はそんな自分でも、バイアグラの力を借りずには乗り切れる気がしない。なんたって相手は、あの岡野部長なのだから。
バイアグラのついでに口臭除去の錠剤も飲んだあと、デスクに戻ろうとした所で、何か備品を取りに来たのであろう横井と対面した。会釈をしようと思ったら、わざとらしく目を逸らされ、そのまますれ違った。一体、横井は自分に対して、何を根に持っているのだろうか。普段の村田ならまたうじうじと気にして悩む所であったが、今日はそんなことはもはやどうでも良かった。千穂理に関する一連の悶々と、目の前に立ちはだかる面倒極まりない仕事のことだけで、村田の頭はいっぱいだった。
落ち着かない気分のままデスクで仕事をしていると、フロアの入り口が騒がしくなってきた。岡野部長がお見えのようだ。吸い込んだ重たい空気が、鉛色の溜息となって吐き出される。村田は「いよいよか」と思い、腰を上げた。
小池を始めとする複数の社員に恭しく囲まれながら、鏡餅に手足をくっつけたような図体の岡野部長が歩いてきた。人間とブルドッグのハーフみたいな顔には、地肌の色が分からないほどの、分厚い化粧が塗りたくられている。オーラというか、覇気がすごい。
「こちらが損益管理課の村田くんです。本日は彼が部長のおもてなしをさせていただきます」
小池に紹介され、村田は慌てて頭を下げる。
「あら、悪くないわね。あなた、か細い感じに見えるけど、大丈夫? あたしはこう見えてもすごいわよ。おほほほほほほ」
老獪な声が部屋に響き渡った。フロア中の社員がみんな立ちあがって、姿勢を正しながらこちらの方を見ている。皆自分に哀れみを感じているだろう。
「はじめまして。村田と申します。本日は精一杯おもてなしをさせていただきます。あちらの扉を越えて少し歩いた所に、リフレッシュルームがございますので、ご案内致します」
「あらあら、あたしここまで来るのに疲れてるから、リフレッシュの前にちょっと休憩させてね。おほほほほほほ」
老獪を通り越してもはや妖怪だなと思った。引き攣った笑顔を浮かべながら、村田は岡野部長の右斜め前を歩き、応接用のリフレッシュルームまで案内した。