Refresh
スマートフォンの目覚ましアラームが鳴った。村田が世の中で一番嫌いな音だ。「来なければいい」とどれだけ願っても、残酷な朝は必ずやってくる。村田は夢の続きを諦め、投げやりにベッドから降りた。
手の内側に痛みを感じるほど冷たい水で顔を洗い、歯を磨く。風呂場へ行き、寝癖の髪にシャワーのお湯を浴びせ、ドライヤーで乾かす。誰かに操られて動いているかのような、機械的な動作であった。冷蔵庫に入っているバナナを一本ちぎって、皮を剥き、とくに味わうこともなく速やかに食べる。下の方は腐ってじゅくじゅくになっていたので、途中で捨てた。口臭除去のための錠剤をケースから2粒取り出し、口に含む。今日も誰と唇を交えるか分からないため、口臭対策はかかせない。
家を出て5分の距離を歩き、駅に着く。もう2年以上もここで暮らしているので、朝の支度時間のペース配分は完璧だ。可能な限り遅くまで寝て、電車に間に合うギリギリの時間に、ホームに降り立つことができる。
電車に乗り込んだ。座席に空きが無いことは最初から分かっている。今日は一段と車内が混んでいるので、鞄から文庫本を出して広げる気にもならない。なにげなく、近くの席に座っていた小学生の男子達の会話に、耳を傾ける。
「今日の体育の授業、マジでだるいよな。女子の体に触るのとか、気持ち悪いし」
「ほんとそれ。今日はお風呂でいつもより体をしっかり洗ってきなさいとか、うるさいよ。俺、ちんこ洗わずに来たもんね」
「ガリ勉の下山なんて、もう家で妹と予習したらしいぜ」
「気色悪いやつだな。下山なんかどうせ誰も相手してくれなくて、先生とペア組むことになるんだろうな」
なるほど、彼らは今日、学校でリフレッシュの実習授業を受けるのかと、村田は懐かしい気持ちになった。自分の場合は小学5年生のときに同じ授業を受けた。リフレッシュの実習授業は、クラスの男女でペアを組んで行う。男子は緊張と興奮を抱えながらも、照れ隠しのために嫌々やっているふりをし続け、女子は一貫して、割と神妙な面持ちで実習を行う。きっといつの時代もそれは同じなのだろう。そして、必ずクラスのおとぼけ男子が、「先生、このゴム付けないでやってみたいんですけど」なんてことを言ってしまい、それを聞いた女子一同から、「コンドームを付けないでやるのはセックスって言うんだよ。赤ちゃん作るためにやるんだよ」「皆の前で赤ちゃん作るの?」「はずかしー」などと非難囂々の目に合うのだ。
初めての実習でうまくいかなかったペアは、次回の授業で再挑戦ということになる。最終的にクラスの全ペアが初体験を成し遂げるまで、それは続くのだ。村田自身の時も、挿入がうまくいかず、3回失敗して、4回目の授業でようやく成功した。今でも、ペアの女の子が悪かったことにしている。
電車が会社の最寄り駅に停まった。小学生達に心の中でエールを送りながら、電車を降りた。今日は冷え込みが厳しく、周囲の人々の多くは、コートのポケットに手を入れながら歩いている。工場までは、ここから徒歩20分だ。
サラリーマンや制服姿の学生が行き交う道を少し歩くと、道端で、汚い身なりのホームレスのような男と、金髪でケバケバしいヤンママのような女が、全裸で絡み合っていた。あまり治安のよくないこの街では、珍しくない光景である。
「もしもし、公共の場でのリフレッシュ行為はおやめください」
通りかかった白バイ警官が一応声をかけるが、男女は聞く耳をもたず、げっ歯類の喧嘩みたいな激しい絡み合いを、尚も続ける。警官も、言うことを聞いてもらえないことは最初から分かっていたようで、「一応注意はしましたよ」と言わんばかりに、すぐその場を走り去って行った。
彼らの動物的なリフレッシュを見て、村田の中に欲情が沸々と湧き起こった。来た道を引き返し、駅前に設置されてあるリフレッシュルームに向かう。10個のブースのうち1つだけが、赤ランプの付いた状態で待機中になっていた。中に入ると、小柄な女子高生が、すでに下着姿で待機していた。村田と女子高生はすぐに行為を始める。大人しそうな見た目の割に、彼女は意外とアグレッシブで、初対面の村田に対して、進んでフェラチオも行ってくれた。程なく挿入をし、村田はまたすぐに果ててしまった。女子高生は、行為が終わると、すぐに服を着て、挨拶もせず出て行った。始業前であまり時間が無かったのかもしれない。
自分も行かなくては。身なりを整え、自動発行機のボタンを押して「リフレッシュ証明書」を発行し、それを鞄に入れてブースを出て行く。村田の工場では、この証明書を提出しさえすれば、リフレッシュをしていたことによる遅刻は、遅刻と扱われない。ルールは企業によって様々で、金融のようなお堅い業界では、リフレッシュ遅刻は認められない所が多いらしい。
○
会社に到着した村田は、いつものフロアに向かった。席について、パソコンの電源を入れる。毎度のことながら、朝のこの瞬間は、これから始まる怒涛の一日を想像して、気が滅入りそうになる。とてもではないが、最初からエンジンをかけていこうなどとは思えない。淡々とやるべきことをこなしているうちに、少しずつだがエンジンは自然にかかってくる。
メールチェックを済ませ、次の仕事に取りかかろうとした時、背後に人の気配を感じた。振り返ると課長の小池がいた。視線を下に落とし、何かを言い案じている顔をしている。また面倒なことになりそうな予感がした。
「どうしましたか」
「実は…園山工場長がお呼びなんだ」
嫌な予感は的中した。工場長とは、読んで字のごとく、この工場で最も偉い人物である。
「どのような御用件で、ですか」
「今回の決算において、アルミニウムの製造コストが予算から大幅に悪化している件で、経理部に事情を聞きたいそうだ。もちろん私も行くが、アルミ部担当の君にも同席してもらいたい」
「製作部の方に直接聞く方が、詳しい事情を得られるかと思うのですが」
「より客観的な立場からの話が聞きたいらしい。今日の11時に、工場長室に来てほしいそうだ。工場長から突っ込まれそうな所は、回答を準備しておいてくれ」
言い逃げるように、小池は去って行った。エンジンのかかり始めた心が一気に重たくなる。全く、余計な不安が増えてしまった。
気分転換をしようと、休憩所に向かった。赤ランプの点いたボックスに入ると、偶然にもまた横井がいた。村田はさっそく始めようと思って横井に近付いたが、横井は少し狼狽した表情になり、
「すみません、午前中に片付けないといけない仕事を思い出したので、ちょっと抜けます。ごめんなさい」
と言いながら、目も合わせずに出て行ってしまった。昨日、射精のタイミングが早くなってしまったことを、彼女はやはり不満に思っているのだろうか。それとも、自分のやり方で、何か他にまずい点があったのだろうか。考え始めると疑心暗鬼に駆られる。女性社員の間で、小池課長の腰の振り方が面白いという陰口が広まっていることを、村田は知っていた。同じように自分も、悪い評判を立てられているかもしれない。村田の胸の中にまた一つ不安が増えた。リフレッシュする気が起こらなくなり、村田はまたデスクに戻った。