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工場から電車で3つ離れた駅の近くに、村田はアパートの部屋を借りて一人暮らしをしている。同僚の中には工場のすぐ近くのマンションで部屋を借りる者もいたが、会社から解放された気がしなさそうな気がして、村田はそれをためらった。
寄り道もせずまっすぐ帰り、部屋についた村田は、脱いだ上着を床にほったらかし、体をベッドに預けた。片付けないまま放置されてある衣類が、床に散乱している。時刻は23時を過ぎていた。
村田は寝転びながらスマートフォンをいじり始めた。最近久しぶりに連絡を取り合うようになった中学時代の友人に、メールを返信する。その後は、会員登録しているSNSサイトを2~3件ほど回ったが、特に面白い情報は無く、巡回作業はすぐに終わった。次は何の気なしに、これまでスマートフォンで撮影した写真を、古いものから順番に見始める。京都の鴨川をバックに、屈託のない笑顔でピースをしている女性の写真が出てきた所で、村田の手が止まった。
女性の名は富永千穂理という。村田が大学二年生の頃から約5年に渡って交際した女性で、村田とは同い年だ。村田と千穂理は、ひと月ほど前に別れた。それからは一切連絡を取っていない。5年ものあいだ一緒にいた人がいなくなるのは、住む場所を変えることなんかよりはよっぽど、別世界へワープしたような感覚だった。
「私たち、このまま付き合ってても、なんだか大事なものが腐っていくだけのような気がするの。ねぇ、別れよっか」
ひと月前、この部屋で千穂理に言われた言葉を、何日経っても反芻してしまう。不甲斐ない自分は、千穂理の言葉に対して、「わかった」と、ただそれだけしか言えなかった。
千穂理は、はっきりしない自分の態度に、ずっと不安を感じていたのだろう。
大学を卒業し、就職してからというもの、村田はいつも千穂理に仕事への弱音をこぼし、「やめたい」「逃げたい」ばかり言ってきた。同じ年に市役所に勤め始めた千穂理は、自分自身の仕事の愚痴はほとんど言わず、村田の弱音を親身に聞いて、優しい言葉をかけてあげていた。
社会人生活が2年目に入ったくらいの頃から、千穂理は村田に、それとなく、将来の結婚の話題を出すようになった。けれども村田は、その話になると、いつも間抜けな笑みを浮かべ、生返事をするだけだった。適当な冗談を言っては、話題を逸らし続けた。
千穂理と結婚したくないわけではもちろんなかったし、これ以上他の女性と付き合いたいなどとも、全く思わなかった。ただ、覚悟が決まらなかったのだ。村田は、この歳になってもまだ、何の不安も抱えず毎日を過ごしていられた大学時代を思い出しては、常に何かしらの責任と重圧を背負い続けなければならない現状を嘆いてしまう。社会人3年目に突入した今でも、仕事のやり甲斐なんて見つけられていない。この先、歯をくいしばりながらでも追い求めたい目標なんて、当然無い。できるなら、この重圧だらけの生活から抜け出して、あの楽な毎日に戻りたい。もし、心が壊れてしまったふりをして、仕事を投げ出したら、実家の両親は自分を助けてくれるだろうか。
そんな甘い考えを未だに捨てきれない村田に、結婚など簡単にできるはずがなかった。自分一人の人生なら、いざ逃げ出したくなったら、いつでも何でも捨てられる。しかし、家族を持つとそうはいかない。子どもなどできたら今度こそ逃げられない。
一体、自分はどうすればいいのだろうかと、村田は悩んだ。いや、悩むふりをして問題をおざなりにし、答えを出すことを先送りし続けたのだ。「どうすればいいだろう」と、本当に悩んでいたのは千穂理の方だったのだろう。彼女は苦悩の末に、いつまでもはっきりしない自分に見切りを付け、5年連れ添った恋人に「さよなら」を告げるという、一番辛い役目まで、担うことになったのだ。
村田は窓を開け、ベランダに出て、コンクリートの床にしゃがみこみ、煙草に火を付けた。やるせない思いが煙に乗って空に昇っていき、闇の中に溶けていく。ほろ苦い香りが体の内側に染みわたり、くらっとするような感覚が現実感を奪う。今の村田にとって、唯一の安息の時間だった。あと2本吸ったら、風呂に入って、今日はもう寝てしまおう。そうしたら、もう朝など来なければいい。最近は毎晩のように、そんなことを思う。