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ゆく河の舟で三三九度(第四話)

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「ねえ、戸越先生は、あのゴミ屋敷のじいさんち、なんで突然きれいになったんだと思う?」
 風季は聞いてしまってから後悔した。なにを聞いてんだろう。その答えを聞いたら、自分がもっとずぶ濡れになってしまうとわかっているのに。
「…一人で死ぬの、嫌だな、って。思ったんじゃないですかね」
 軒の下には幾つものモビールが飾られている。赤やオレンジの色紙を複雑に組み合わせて作られた太陽のようなもの、青やエメラルドグリーンの色紙で作られた球形のもの。どれも音もなく揺れて、刻々と見せる姿を変えている。風季はすっかり陽の落ちた、幼稚園の暗い室内に一人で立っていた。いつのまにか、戸越もいない。どれくらいの間、風季はこうしてぼんやりしていたのだろう。風季は時間がたがを外し、めちゃくちゃに進んでいるのではないかと考えた。しかし、鞄のなかでは携帯の着信ランプが点滅していて、時刻が確かに経過しているのがわかった。
 紫の着信ランプ。姉の涼香からのメールだ。風季は携帯を鞄の奥に押し込んだ。涼香からのメール――それは今、風季がもっとも見たくないものだった。風季は逃げるように幼稚園を退出した。

 *

「じゃあ、今度は縁側に出てみましょう。ああ、そこ。そこに掛けてみてください」
 修理の終わったカメラを手に、健二はいつもの1.3倍の速度で動いている。そのカメラをかつて手にしていた頃の記憶を体現しているみたいに。
 房子はちょっと恥ずかしそうにしながら、遠慮がちにカメラのレンズのほうを見た。その瞬間をシャッター音がすかさず捕える。今にも止まりそうなフィルムを巻き上げる機械音が鳴り、やがて静かな風景に戻る。
「まだ撮るの? もういいでしょう。そろそろお買い物もしないと」
 房子は頬を染めながら、家の中へいそいそと引っ込んでいった。
「…逃げられてしまいましたなぁ」
 健二はひとり庭に残されると、そう言って頭を掻いた。
 背後の花の散った桜の木が風に揺れた。健二は桜の木を見上げた。初めて見るかのようなまなざしだった。健二はカメラを構え、上を見上げながら一枚シャッターを切った。フィルムの巻き上げ音が止むのを待っていたかのように風が吹き、辺りは騒がしくなった。
 健二は、今度は桜の木の幹の辺りに標準を合わせ、シャッターを切った。何枚も何枚も切った。騒がしい葉の擦れる音に、シャッター音はかき消された。それでもシャッターボタンを押し続けた。
 十枚ほどそうやってシャッターを切ると、健二はやっとファインダーから顔を離した。力なく、縁側に腰掛け、ぼんやりと桜の木を見上げた。そのとき、からからと乾いた音を立てて、縁側の窓が開いた。
「それじゃあ健二さん。私、お買い物に行ってきますよ」
 と、房子が窓から顔をのぞかせる。
「ああ、そうですか。お願いします」
 健二は房子のほうを振り返った。その表情に房子は驚いた。それは、今まで房子が目にしたことのない健二の表情だった。目から輝きは失われ、頬骨が力なく沈み、口元は溺れた人のように力なかった。親に捨てられた子犬を必死に町中探している小学生がちょうどこんな顔をするのではなかろうか。
 房子は買い物用の袋を置いて、縁側のつっかけで健二の元に歩み寄った。
「房子さん」
 健二は首に掛けたカメラを取ると、房子にそれを手渡した。
「一枚、撮ってもらえませんかね」
 そういうと、健二は桜の木の下にゆっくりと歩いて行った。そして、桜の木の下のところでくるりと振り返り、背筋を伸ばした。
 房子はいぶかしがりながらカメラをおもむろに構えた。そして、ファインダーを覗いた瞬間に、何かに気付いたようにはっとした。
「さあ、いいですよ」
 健二は凛とした声を出し、房子を促した。
「いいですか、じゃあ撮りますよ」
 房子は宝箱の蓋を丁寧に閉めるように、シャッターを切った。

 *

 午前中ともなれば、幼稚園で遊ぶ子供たちの声で居間は賑やかになる。障子から漏れる淡い光が、畳の藺草の匂いを温めた。室内は外の賑やかさと反して静かだった。
 房子は箪笥の引き出しから、細かい罫の印刷された封筒を取り出した。それは、この前写真店で渡された封筒だった。
 静かに、音を立てないようにして、中身を取り出す。
 まず出てきたのはネガフィルムだった。半透明の帯状の袋が下へと連なり、じゃばらに畳まれていた。半分は感光してしまったのか、何も映らず真っ白になっている。房子はそれを脇にやり、更に奥に手を伸ばした。次に現れたのは、細長い、広告の印刷された封筒だ。中を開けると、写真が束になって収まっていた。――壊れたカメラに収められていた写真だ。
 健二は区役所に行っていて、しばらく帰ってこない。房子は写真を一枚一枚手で繰った。
 写真に写っていたのは、ほとんどが小学校の卒業式の写真だった。健二と口元が似ている少年が卒業証書を受け取り、演台から下りていく写真。連なるパイプ椅子のなかで、他の小学生の頭に埋もれながら、カメラのほうを見ている顔が半分くらい映った写真。小学校の門の前で、着物を着た女性とさっきの少年が並んで写っている写真。家に戻って、卒業証書を誇らしく前に広げる少年と、その横でまったく関係ないポーズをとっているおさげ髪の女の子(この少女の眼もとは、さっきの着物の女性と似ている)。そして、桜の木の下で、まだふくよかに肉付き、背筋もまっすぐ伸びている健二と、さっきの少年と少女、着物を着た女性が、カメラのほうを真っ直ぐに見て並んでいる――家族の写真。
 写真に写っている桜は、きっと庭にあるあの桜だろう。まだ幹が今ほど太くなっていないが、枝振りが同じだし、背景の塀も一致している。卒業式に限らず、あの桜の下は健二の家族の節目節目を刻む大切な場所だったはずだ。この写真が撮影されたときには四人の家族がこの家で生活を営んでいたのに、いまここにいる写真の中の人物は健二だけだ。
 房子は、この写真を写真店から受け取った後、帰り際に寄った公園のなかでこの写真に目を通していた。健二には健二が生きてきた七〇年余りの歳月がある。房子は、そのほとんどの場面に居合わせることができなかった。それは当たり前のことであるのだが、目の当たりにすると辛いものだった。
 二度と写真を目にしないところに置く、それも一つの手段だっただろう。しかし、房子は再び紐を解いた。その写真が自分に馴染んでくるのを待つように、一枚一枚両手にとっては眺めた。
 写真は、長く現像に出されていなかったために、どれも色が赤くぼやけていた。しかし、そこから浮かび上がったひと型の像は妙になまなましく、生きている息遣いが聞こえてきそうだった。
「こんにちは」
 房子は写真の中の着物の女性に話しかけた。健二の妻であった人の顔は、若かった頃の房子と比べても似ても似つかなかった。派手ではないけれど整った目鼻立ち、謙虚さと自信が程よく混在している出で立ち。きっとおしゃべりで、よく笑う人だろう。写真店の主人がまじまじと房子の顔を眺めたのも無理もない。この老女は後妻なのか、それとも月日はかくも人を変えるものなのか。