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ゆく河の舟で三三九度(第四話)

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グレーのスーツの集団が足早に黄色の電車に上がり込む。風季もうつむき加減でその集団の動きに歩調を合わせる。車内の人間は眼だけを動かして、入ってくる者の数を見定める。風季はそれらの眼と眼を合わせないようにして、ホームと開いたドアの境界に足を掛けた。猛る猪が迫る勢いで背中を押される。しかし、風季は眉をしかめもせず、甘んじた。
 幼稚園までは行こうと思えば自転車でも行ける。風季が電車に乗るのはいつもたったの一駅分だ。しかし、風季はそれをしなかった。
 満員電車の中での風季の表情は穏やかだった。節電の為に蛍光灯を切られているせいで、車内の中央付近は薄暗く、貨物列車のようだった。人の頭と頭の隙間から、ときおり燦々と窓に光が差し込んだ。それは車内にいっそう影のコントラストをもたらした。光に溢れている外の世界が地球の反対側の景色のごとく車窓を通り抜けていく。
 改札を抜け、階段を下りると、人々はめいめいの場所に足を向けていった。風季は横断歩道を渡ったところにある大きな神社の境内を通り抜ける。この神社を抜けると、風季の通う幼稚園だ。白く塗られた北欧風の門の先で、奔放に植えられた園庭の花々が風季を出迎える。風季はその花をしばし眺めた。なだらかな丘の斜面に植えられた花々には、庭と花壇を区切る境が存在しなかった。花が密集する丘の一番上から、徐々にその密度は薄くなり、やがて園庭へと繋がる。花は人と生きる領域を明確に区切られることなく思い思いの場所で咲いていた。
 風季はその丘の上のほうでパンクロッカーのピンクに染めた髪のような細いひなげしの花びらが"Hey now!"と空を仰いでいるのをみつけて、リズムに合わせて足を進めた。
 園舎に入って左側、職員専用のゾーンに進むと、風季は先客とすれ違った。
「おはようございます」
 優等生的なきびきびとした声が飛び込んでくる。生成り色のエプロンをつけたひょろりと細長い女性職員だった。天然パーマのうねった髪を後ろで一つに束ね、胸に『とごし』という名札をつけていた。
「おはよう」
 風季はもうこれで一日の仕事がすべて終わったような疲れた口ぶりで返す。カバンを投げるように置き、上着をハンガーにかけ、ロッカーから代わりにエプロンを取り出す。汚れてもいい園内着に素早く着替え、仕上げにクリーム色のエプロンの紐をきゅっと締めた。ロッカーの鏡の前で、風季はいいっーと笑ってみせる。
 更衣室を出ると、園児が一人風季の姿を見つけて走ってきた。風季はしゃがんで園児を抱き止める。園児は風季の腕の中できゃっきゃっと小猿になった。風季は目を細め、さっきの低空飛行の声が嘘のように甲高い声をあげた。
「わたるくん、おはよう! 今日、来るの早いね!」
 はにかんだ顔で園児はうん、とうなずき、風季は笑いながら園児の頭をもしゃもしゃと撫で回した。柱の影から保護者が顔を出した。すみません、早く幼稚園行くって聞かなくて。風季は園児を下すとにこやかに保護者に返答した。風季のその口調は手慣れたもので、保護者もそんな風季に信頼を抱いていることがその一回一回の相槌の重さから図り知れた。戸越は風季の様子を横目で見遣ったが、その変容ぶりは見慣れたものだったので、先ほどの変身前の風季の姿はロッカーの隅のところでだんまりを決めてしまわれることになる。
 帰り際、風季が再びそのロッカーの扉を開くとき、風季だけがその抜け殻の姿と顔を合わせることになるのだ。

 *

4月19日 

 朝、10:30頃、縁側でお茶。湯飲みは白地に青で絵が描かれている、口が広いタイプの物。ペア。
 お茶を持ってきたのは女。
 しばらくの間、お互い湯飲みをのぞくばっかりで飲もうとしない。
 なにしてるんだろう?
 中に毒でも入ってて、これから心中しようとしている、とか?
 だけど怖くて、飲むのをためらっている、とか?
 でも、お茶を飲んでも、二人とも苦しむ様子なし。

 *

「煎れてみましたよ」
 房子はお盆の上に二つの湯飲みを乗せて現れた。縁側で日に当たっていた健二は振り向いて、笑顔で房子を受け入れた。お盆が縁側に置かれると、二人はお盆の上の湯飲みをじっとみつめた。
 湯飲みの中には、ボール状になった緑の繊維質のものが浮いている。小さな毛糸玉のようだ。二人とも、言葉もなくそれを見つめている。
「房子さん、ほら、開いてきましたよ」
 毛糸玉の外側が少しずつほぐれてきた。花が開花していくときのように、折り重なった繊維質のものがゆっくりと外へと放射状に広がっていく。その、緑の繊維の奥から紅色のものがのぞいた。更に広がっていくと、それは葉の中に隠されていた花だった。葉に同じく針のように細い花びらだ。一片一片の花びらを広げ、湯飲みの中に恒星の輝きを放っている。
「きれいね」
「ジャスミンティー、初めてでしたか」
 縁側にはジャスミンティーの高貴な香りが立ち上っている。房子は湯飲みを手に取って香りを楽しんだ。
「知らないまま死ぬところだったわ」
「今度はサイフォンコーヒーを煎れてあげましょう」
「裁縫コーヒー? 縫う目でもあるの?」
「サイフォンコーヒーは火を当てながら煎れるから温めはないですよ」
 房子は染物の工房で日を当てて布を乾かす工程で煎れられる裁縫コーヒーなるものを夢想していた。工房のベランダには何枚もの藍染の反物が太陽の光を浴びながらはためいている。きっと染物が有名な地方で煎れられるコーヒーなんだわ。でも、縫い目もないのになんで裁縫?

 *

 16:00頃、部屋の中が騒がしい。ついに事件か。
 と、思ったら、二人とも縁側にも出てくる。じゃれながら写真を撮りあっている。
 ただの仲良し老人だろ、これ。
 でも、なにかのアリバイを残そうとしているのかも。油断できない。
 一人残された男のほう、執拗に桜の木の下を撮る。もう桜散ったのに。怪しい。
 再び、女が縁側に出てくる。男が女にカメラを渡して、また桜の木のところを、今度は自分と桜という図で撮っている。怪しい。この木の下絶対なんかある。
 死体だ。きっと死体が埋まってるんだ。

「田邊先生、最近毎日なに一生懸命書いてるんですか?」
 バタンと音を立てて、風季は手帳を閉じた。振り返ると戸越がつくしのように立っていた。目の端に映ったものを思い出しているのか、ゆっくり首を傾げながら風季に訊ねる。
「…もしかしてレコーディングなんとかってやつですか?」
 風季は曖昧に笑った。
「まぁ、そんなようなものかな」
「なにごとも継続、ですよねぇ。私はなかなか続かなくって」
 戸越はとろん、とした口調で言った。てめえはレコーディングなんちゃらやる必要ねえだろうが、と心の中で毒づきながら風季は、
「新しいこと始めてみるのもいいもんよぉー! ほら、なんせ春だしぃ」
と、高いテンションでころころ表情を変えながら言った。
 今度は戸越が、少し疲れたように笑って、風季の側を離れた。
「そうですね、変わるにはいい時かもしれませんね」
 園庭を眺める戸越は、どこを見ているのかよくわからなかった。園庭には、園児は誰一人として出ていなかった。風季は見えていなかった水たまりに自分一人がはまってしまったような気持ちになった。ばっしゃん。