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ハピネス

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 サギリは膝を顔に寄せてうずくまり、手で砂を掘っている。マリは周りを見回して母親の姿を探すが、あたりには誰もいない。人の気配すらない。
「サギリちゃん、何してるの? ママは?」
 マリがそう話しかけると、サギリはまぶしそうに顔を上げる。両目が真っ赤に腫れている。涙の跡が頬にある。口のまわりに砂がつき、一つに結ばれた髪の毛のゴムはゆるんで、あちこちほつれている。
「どうしたの?」
 思わずマリはそう言って、サギリに手を伸ばす。
「一人で遊んでるの?」
 マリの問いかけに、サギリは小さく頷く。放心したように、その顔には表情が浮かばない。
「どうして泣いるの?」
「ママがここで遊んでなさいって。迎えにくるまで帰ってきちゃだめって」
 サギリの顔は汚れていた。汗と涙に砂粒がひっつき、口の端にも涎と混じった砂がこびりついている。きれいにしないと、子どもはこんなにも簡単に汚くなるのか、とマリは考える。近づくと、酸っぱい汗のにおいと、おしっこなのか、つんとしたにおいが鼻をつく。
「一緒におうちに行ってみよう」
 マリが差し出した手をサギリは握る。べったりとして、生温かく、ざらついた砂がマリの手にもひっつく。臭くて汚かった。この感覚を知っている。臭くて汚くて母親に置いていかれたこの感覚は、一瞬で、記憶の底から、マリの肌の現実感覚に甦る。
 めまいがする。貧血のような、立っているだけで既に危うい感じ。マリはサギリの手につかまるように歩き、サギリはマリ自身なのだろう、マリであり、全てのこどもであり、そこらへんの犬猫であり、生温かさであり、滑り台やブランコ、三輪車の持ち主であり、マリ自身である、という声を耳の奥で聞きながら歩く。
 インターホンを鳴らす。ピンポオン、日常を要約したような、平和なベルの音が玄関に響く。この音を、この響きを、こどもの頃から何度聞いただろう。決して自分のものにはならない世界の向こう側の、そのドアを叩く音。でも今は、ぐにゃりと歪んだ境界線に立っている気がする。繋いだサギリの手は力なく、ぐったりとしてマリに握られている。
 音声の返答はないが、家の中から母親がカメラでこちらを見ている気配がする。マリはインターホンをじっと見つめ、その中の小さなレンズに映る自分とサギリの姿を眺める。親子のような、双子のような、その姿。
 玄関が開き、母親が無言で立っている。清潔な白いシャツ姿で、すっきりと髪をまとめ、でもその顔は無表情で、口は固く閉じたままだった。
「サギリちゃんが公園に一人でいたので、連れてきました」
「それはどうも、ありがとうございます」
 母親は小さな声でそう言うだけで動かない。マリとサギリを、遠くの出来事のように眺めている。
母親が口を開く。
「あなた、この前の訪問販売の子ね」
 マリは頷く。
「あの後、講師が来たわよ。最低なやり方ね。胸糞悪いわ。何が講師よ。大学も出てないじゃない。汚い足で家に上がり込んで、家中を値踏みするみたいに見回して、何が早期教育よ」
 繋いだサギリの手はじっとり湿っているが、力は抜けて、眠っているみたいだった。
「お気に召さないことがあったのなら、それは申し訳ありませんでした」
サギリはマリの横から動こうとしない。マリと手を繋いでいることも忘れているのかもしれない。ただそこにいるだけ、ただ立っているだけで、心はどこか他のところへ飛んでいるのかもしれない。その方が良い、とマリは思う。それも自分の身を守る一つの方法なのだから。
「わざわざ連れてきてくれてどうもありがとう。サギリ、家に入りなさい」
名前を呼ばれて、サギリははっと顔を上げる。マリはサギリの手を離す。
「ママ、ごめんなさい」
 母親の顔を見て、サギリは絞り出すように言う。つんとした臭いが強くなり、母親の顔が歪む。
「おしっこもらしたの? 汚い、何度ママに大変な思いをさせる気? また全部洗わなくちゃいけないじゃないっ」
サギリはこぶしで目をこすり始める。やがて口の端からかすかな泣き声がもれる。サギリはわきあがってくる涙を押し戻そうとするように、こぶしをぐりぐり押し付け、目をこすり続ける。
どうすることもできないし、どうしてあげることもできない。マリはサギリから視線をそらす。小さな悲鳴のような泣き声がサギリの口から洩れている。
マリは玄関ドアから出ようとする。背を向けると、後ろから母親の乱暴に放たれた声が追いかける。
「あなた、こんなのが虐待だと思うの? こんなの何もでもないのよ。この子も私も、不幸じゃないし、別にこんなの、子どもを育てる中では何でもない当たり前のことなのよ。子育てって、本当にめんどうで、やってらんなくって、下らなくって、投げ出したくなるほど厄介な時があるの。私だけが特別そうじゃない。子どもを捨てたくなる時があるのよ。捨てたっていいじゃないっ、別に」
その声は、怒りに満ちて聞こえるのに、傍らのサギリが漏らす悲鳴のような響きと、とてもよく似ている。
よく分かる気がする。きっとこの人はこんな風に、誰かに言いたかった。玄関のドアが閉まろうとするその隙間に、その一瞬に声を滑りこませてまで、言いたかった。聞いてほしかった。
同じ衝動を、マリは自分の中にも感じる。でもそれは、深くて濃い無力感に覆い尽くされている。夢で見る金縛りの中で、黒い雪に覆われて身体を動かすことができないように。
 サギリと目が合う。マリの息が苦しくなる。雪に押しつぶされる苦しさだった。助けて、きっとサギリはそう言っているに違いなかった。このままドアを閉めるべきではない、そう思う。でも、どっしりと重くのしかかる雪の圧迫感を感じる、苦しい、息ができない、雪に埋もれてしまいそうになる。マリはドアを閉め、その場から逃げる。

不安で胸がどきどきする。早く帰ろう、そう思った時、あそこは哲夫の部屋だ、自分の帰る家はない、と呟いてしまう。
どうしよう、どうしよう、心の中で呟きが勝手に溢れ、逃れるように足が前に出る。国道を走る車のエンジン音が、いやに大きく聞こえる。タイヤの回転、そのどうしようもない摩擦の速さに怯え、マリは路地に入っていく。
細く入り組んだ路地を進むにつれ、方向が分からなくなる。分かっている、分かっている、サギリの所へなんか行かなければ良かった。サギリと母親の姿が頭の中にぐるぐる纏わりつき、さっきから何度も何度も同じ場所を歩いている。
 かかとに傷みを感じる。スニーカーの裂け目が当たって、靴擦れができている。血が滲んでいた。
 傷みの感覚に連動するように、母の声が甦る。どんな苦しみにも神さまのお考えがある。どんなときにも神さまは、私たちの傍に寄り添ってくれている。
 うるさい、違う、マリは母を殴りつける。生きている間中、自分で何とかしなくちゃいけないことばかりなだけだ、神さまは何もしてくれないし、助けてもくれない、小さな子どもが押しつぶされて、その柔らかい形が目の前で歪んでいくとしても、神さまは手を差し出してはくれない、そんなものに神さまの意図なんかない、必然も、意味も、そんなものない。
作品名:ハピネス 作家名:なーな