ハピネス
母はいつも黒のスーツで身を固め、マリにもブレザーとチェックのスカート姿を規定とした。物乞いと間違われないように、そう母は言いながらマリの髪を三つ編みに編んだ。
葬式か、お受験か、発表会か、そんな姿にも見えるこの律儀な布教活動を、知らない町の人はいなかった。けれど、このことについてマリが同級生にからかわれたりするようなことは起らなかった。
こどもたちはマリに何も言わなかった。昨日家に布教に来たね、なんて口にもしなかった。そのようにしつけたのは親たちで、マリは地域の住民から見守るべき対象となっていた。母親の布教は無視しても、去り際にはマリのポケットにお菓子を滑り込ませてくれた。
でも、こどもたちが何も感じなかったわけではない。マリと対峙するときにはいつも、緊張が間に挟まれた。マリの背負っているものの重さに対して敬意が払われ、空気はいつも透明であるように努力された。こどもたちの努力の証でもあるその一定の距離は、今でもマリの周りを透明に包んでいる。
休みを失ってから久しかったので、休日をどのように使っていいのか分からない。一緒に授業に出ようと哲夫に誘われたが、足の裏が強張って思わず、今日は良い、と答えていた。
哲夫が行った後、静かな部屋で、マリはベッドに寝そべり考える。いっそ休学届けを出して、一年くらい自分に猶予を与えてみようか。
でも、少しでも軌道から逸れるのが怖かった。挫折した途端、取り返しの付かないことが始まる、そんな恐ろしい予感がすぐ傍にある。
取り繕う、と言うよりも、吸い込まれそうな恐怖を取り払うように、マリは鏡に向かってにっこりと笑ってみせる。歪んだ顔が横に広がる。
錠剤を水道水で流し込む。歯ブラシにたっぷり白い粉を付けて歯を磨く。奥歯まで念入りに歯ブラシを突っ込む。歯茎、頬の内側、舌苔、歯ブラシが喉をついて、思わずえづく。
鏡を見返すと口の中が血だらけになっている。歯磨き粉の白と混じって、赤い血が泡立っている。
母と一緒にいたころは、すべてが母の手に絡め取られていた。何もかもが母の選択による結果だったし、長い三つ編み、眉で揃った前髪も、その下の落ち着かない目も、母との生活が生み出したものだった。
それから逃れるように、今の自分を築いてきたつもりだった。生活も精神も過去のそれと分断し、新たな生を受けるように自分の感覚を養っていこうとした。
自立、だと思っている。しかし、ふとした瞬間に、マリは母から逃れられていないと思い知る。気がつけば、日常のどこにでも母の影がある。それに出会うたびマリは、今自分が立っている地点を信じられなくなる。
マリは、いつか自分が事件沙汰になって新聞に載る日を想像する。あの時のあの子、とあの町の人々が囁く。ああやっぱり、あのときの可哀相なあの子は、とため息が聞こえてくる。
やっぱり、なんて誰にも言われたくなかった。普通の人々、普通の暮らしの中に溶けたいだけだった。今日一日分の出来事だけを思い煩い、白く新しい紙をただ重ねるように、日々を過ごしていきたいだけだ。
諦めるわけにはいかなかった。足元を取られないように、しっかりしなくちゃいけない。
ベッドの下の、脱ぎ捨てたままのジーンズに足を突っ込み、パーカーを羽織る。掛け持ちのアルバイト先からもらってきた廃棄分のおにぎりとサンドイッチ、それから空のペットボトルに水道水を流し入れ、部屋を出る。
スニーカーのかかとが破れてちくちく肌を刺す。くたくた具合が良い感じ、と理沙が誉めてくれたのは半年前で、それからかなり傷んでいる。今はどう見ても良い感じどころではなくて、破れてるけど、それ大丈夫? と言われそうなくらいだった。もう何でもいいからネットで三百円くらいで買えるものを注文してみようか、と考える。
川が見える。遊歩道が整備され、花壇とベンチがあり、川岸までは階段が設えてある。
ここには哲夫ともよく来る。ベンチで昼寝をしたり、小さな広場でバドミントンをしたり、缶ビールを飲んだり、真夜中に川に飛び込んでふざけたこともある。しかし、いつも必ず思い出すのは、ふたりが初めて過ごした翌朝五時、川べりのコンクリートに座って、ただ黙って水の流れを見ていたときのことだ。
ふたりとも、霜が体に降りかかるのを待つように、ただじっとしていた。川の流れる音を聞きながら、新しい関係が始まるのを、強く意識した。黙って、自分たちの感情が交わるのを眺めていた。期待や不安が入り混じって、繋いだ手と手がずっと緊張したままだった。その手の平の弾力は、後のどれとも比べようもないほど、マリだけのものだった。
たった一年前のことなのに、すでに懐かしい。時が経つほど思い出に近くなるその記憶は、欲しくもない寂しさを、ひりひりするほど胸元に擦り付けてくる。
今でも変わりなく哲夫は傍にいてくれる。好きだ、好きだよ、と何万回も繰り返し言ってくれる。一緒に過ごした時間の長さは、確かに共に歩いた道のりだと言えるに違いない。
それでもマリは充足感を得ることができない。距離が縮まった思いはなくて、心を開けない息苦しさを積み重ねているだけのような気がする。時間を共に過ごせば過ごすほど、やがて来るはずの哲夫との別れの時を意識する。だんだん残り時間が減っていく、それを日々カウントしている、そんな思いから逃れることができない。
マリはサンドイッチの袋を開ける。食欲はなかったが、今食べなければ腐ってしまうのだし、他に食べるものを買う余裕もない。一口かじったキュウリの弾力は水気がなく、どこまでも無抵抗だった。
川の流れに目を向けると、眩しいばかりの光りが反射する。光と水は、混じり合って輝くのか、それとも表面で弾き合いながら永遠に溶け合わないのか、そんなことを思いながらじっと見つめていると、ひりひり刺すような傷みを目に覚え、マリは瞼を押さえる。瞼に軽い痙攣を感じる。
気分を変えるつもりでここに来たのに、上手くいかない。マリは立ちあがり、川沿いを歩き出す。国道に出て、歩道を歩く。時々ペットボトルの水を飲みながら、マリは歩き続ける。
なぜか、サギリのことを思い出している。気がつくと、サギリの住む住宅街の入り口にいる。
マリは住宅街の中に入って行く。開発されて数年の、真新しい住宅地は、どれもきちんと区画が整理されている。間違いなど最初から起こらないように、綿密に計算され、予防され、徹底され、確保され、約束されているに違いない。何もかも。
マリはサギリの家の前で立ち止まる。磨き上げられた車、へこみのない自転車、色鮮やかな三輪車。小さな庭には子ども用のプラスチックのスコップがある。きちんと、守られるべきものが守られている世界がある。そこにマリは、自分との遠い隔たりを感じるが、同時に、確かにサギリが向こう側にいるのだということを目にして、それだけで、ただ良いと思えた。
少し休みたかった。とても疲れていた。マリはサギリの家から離れ、公園へ向かう。
正午近くの公園には誰もいなかった。人も犬も猫も鳩もおらず、ブランコや滑り台はしんと佇んでいる。水で顔を洗おうと、砂場にある水 道に近寄ったマリは、その時、砂場にサギリがいるのを見つける。