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ハピネス

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 マリは思う。なのにどうして私は求めずにはいられないのだろう。愛している、見守っている、そう言いながら、私を見捨て、私を汚し、私を踏みにじるのに、それなのに、私は求めずにはいられない。神さま、どうか、そう祈りながら、母の称賛を求め、母に愛されたいと願わずにはいられない。
 どこを歩いて来たのか分からない。いつの間にかマリは川に辿りついている。息が苦しい。マリは哲夫の影を探し、夕日に背を向けてその場所にしゃがみ込む。息が苦しかった。破れた靴を脱ぎ、川に向かって放りなげる。小さな水しぶきが上がり、けれど、何事もなかったように川は流れ続ける。この世界に自分はいらなかったのだろう。だから神さまは、母は、私を無視し続ける。だったらいっそ早く、この息を止めてくれたらいいのに。
 マリはコンクリートのざらざらを手の平で撫で、そこに横たわる。痛む裸足の両足を抱え、もう何も見たくない、目を閉じる。
 息を止めて深い深い海に沈むように、二度と目が覚めないことを祈る。何も見たくないし、何も聞きたくない。もう何も要らないし、何も望まないから、どうか、もう、何も感じさせないでほしい。
 限りなく無に近い夢の中にいた。祈りが届いたのかと思うほど、何もかも真っ黒で、寒さも重さも、何も感じない。とにかく何も無いってこと、そう何度もこどもの頃から想像していた死というものに、すごく近づけた気がする。

「マリ、マリ」
 激しく揺すられ、マリは目を開ける。哲夫の手が、マリの身体を揺さぶっている。哲夫の指が肩に食い込み、その力の強さに驚き、必死さで歪んだ哲夫の顔、その向こうの夜空を目にして初めて、マリは自分がいる場所を理解する。
 辺りは真っ暗だった。遠くに見える町の明かり、途切れがちに光る街灯が、目の端にぼんやり映る。足の裏が冷たい。裸足だったのを思い出す。
「大丈夫か、マリ」
「哲夫」
 マリが声を出すと、安堵したように哲夫が大きく息をつく。同時に肩に加わった哲夫の指の力が緩むのが分かる。
「何でこんな所にいるんだ、すごく心配したんだよ、一体どうしたんだよ、頼むよ、まじで」
 哲夫の息がマリの顔にかかる。その声は少し上ずっている。当たりそうなほどすぐ近くにある哲夫の睫毛が、小刻みに震えているのに気づく。
「ごめんね、散歩してたんだけど、そのまま寝ちゃって」
「何も無かったんだな、本当に。何かに巻き込まれたかと思ったよ。裸足だしさ、倒れてるしさ。てゆかさ、何も無くても変だよ、こんな所でさ。靴はどうしたんだよ」
「ぼろぼろだったから、川に捨てちゃった。歩き疲れて、そのまま寝ちゃったんだ。ホント大丈夫、何ともないよ」
 マリの肩を掴む哲夫の指に、再び力が入る。
「何とも無いわけないだろ。なあ、一体どうしたんだよ、最近変なんだよ、何で何も言ってくれないんだよ。確かに俺は何にもできないけど、でもちゃんとマリのこと好きなんだよ。本気で言ってるんだ。どうせ俺の言葉なんか適当にしか聞こえないだろうけど、でも俺はちゃんとマリに伝えようとして言ってるんだ、好きだって口で言って何が悪い、何でマリは何も言ってくれないんだ、俺はマリの力になりたいと思ってるし、多分、ていうか、ちゃんと受け止める気持ちがあるから一緒に居てるんだ。多分、とか今思わず言ったけど、でも俺の言うことはそれだけ全部本気、マリに対して嘘は言ってない。なのにさ、俺にはさっぱり分かんない、マリが何考えてるのか。何だよ、何なんだよ、何に悩んで何を怖がって何が嫌なんだよ。言ってみろよ、学費のことだけじゃないだろ、何かあるんだろ、妊娠したのか、浮気でもしてんのか、ヤミ金に金借りてんのか、なあ、言ってくれないと何なのか分かんねえよ」
 マリの目に映る哲夫の顔が揺れている。死にたい、とマリは呟き、呟いたとき、涙が溢れる。
「私が、生きてる意味はあるのかな」
 泣きながらマリは、そう口にしている。哲夫を困らせたくはなかった。けれど、涙が止まらない。一気に何かが崩れてしまったようだった。押し隠していた衝動が溢れだし、喉が熱くて焼けそうになる。身体を埋め尽くす雪が溶けて、涙になって流れ出るようだった。
「生きてる意味はあるよ、ある、ある、絶対ある、マリ、何だよ、どうしたんだよ、マリ、マリ、マリ、」
 哲夫が手を広げてマリの頬を包む。マリは、涙で揺らぐ向こう側に、切実な色を灯した哲夫の目を見つける。哲夫の手に涙がこぼれ落ちる。
 サギリの、マリを見つめる目が脳裏に浮かぶ。涙に砂粒がひっついていた。あの砂粒を拭ってあげればよかった。そう思う。
「俺にはマリが必要だし、マリがいてくれるだけで嬉しいし、それはマリにしかできないことだろ」
 哲夫はマリの涙をすくい、濡れた頬に触れ、髪を撫でる。
 サギリのほつれた髪を、手で梳いてあげればよかった。膝の泥を払ってあげればよかった。怖がらずに、サギリの手をずっと離さなければよかった。マリは哲夫の手を握りしめる。哲夫はその手を、力を込めて握り返す。
「気づいてやれなくてごめんな。きっと俺はマリにとって、100パーセント完璧にはなれないかもしれない。けど、でも、ずっと一緒にいるから。一緒に寝て、起きて、ご飯食べて、俺たちずっと一緒だからな。大丈夫だから、死にたいなんて思わなくなるほど、俺がいっぱい笑わせるから。だから俺の言うこと、信じて、まじで。大丈夫だから」
 うん、と頷くのがやっとだった。息が出来なかった。でもそれは押しつぶされるような苦しさではなく、身体の奥から込み上げて来る嗚咽が喉をふさいでいるからだった。頬を流れる自分の涙が、とても熱かった。
 濡れたマリの頬に、哲夫が顔をくっつける。哲夫の手がマリの身体をきつく抱きしめる。サギリを抱きしめればよかった。こんな風に、しっかり抱きしめて、大丈夫だからって言って、抱きしめればよかった。神さまに祈りが届くのかどうか、分からない。でも、生きている意味がある、そう言ってくれる人と巡り会える瞬間があることを伝えたかった。たとえそれが信じられないものでも、いつか消えてなくなるかもしれない、頼りない温もりであったとしても、でも、その一瞬が、見えない先を照らす光になることを、サギリに話したい、そう思った。
 肌を撫でる風、草のにおい。川の流れる音が聞こえる。断続的に続くその音は、途切れることなく、マリの耳に入ってくる。マリは耳にかかる哲夫の呼吸の音を聞く。哲夫の息の音、水の流れる音、どちらを聞いているのか分からなくなる。いつまでも止むことのない音の流れにマリは耳を澄ます。背中には、温かな手のひらの広がりを感じている。
 目を閉じて、マリはサギリのことを思う。そして明日また、サギリに会いに行こうと考える。何もできなかったけれど、何もできないわけじゃない。何度でも、あの家のインターホンを鳴らせばいい。何度でも、何度でも、サギリに会いに行こう、そう思う。

作品名:ハピネス 作家名:なーな