ハピネス
島田洋大、久坂サギリ、和田かりん、小林雛子という四つの名前が書かれた契約書を見下ろし、ため息をつく。マリは公園のベンチに座っている。右手にはコンビニで買った百円のモナカアイスがある。それがマリの遅い昼食になる。モナカの先を齧りながら、ぽきぽき折れるチョコの食感を口の中で転がす。薄い皮の破片が契約書の上にぱらぱら落ちる。
この日、マリが訪れたのは、町の一角の小さな分譲住宅地だった。外に三輪車が置かれた家を狙って回ると、例外なく契約を取れた。上手く行き過ぎるくらい今日は好調だった。
それなのに、マリの心は浮き立たない。歩合を計算しても、達成感が沸いてこない。
マリは久坂サギリの名前を見下ろす。引っかかるのはこの名前だった。特別何かあったわけではない。ただサギリという名前が好きになれない。その音韻の響きが、マリには冷たく感じられ、それが発端になって、あの親子の全部が、いつまでも気にかかる。今朝の錠剤のように、喉元に引っかかったまま動かない。
例えば、サギリの服が気に入らない。フリルだらけのワンピースが、本当を隠そうとする装飾のように見える。痺れを切らしたサギリの「ママ、もういいっ」という声が、事実よりも異常に昂ぶって、マリの耳に残っている。
違う、あれは普通の親子だった、普通の家庭だった、と自分の思いを飲み下そうとする。だが、マリはしつこく何度でも、あの親子がドアの向こうで均衡を失った姿を描く。それはこれから始まる光景なのかもしれない。マリの訪問がきっかけとなって、あの親子はバランスを欠いていく。サギリの服は泥だらけになっても代えられず、尿のにおいがじゅうたんにこびり付き、母親は無表情に座り込んでいる。ハサミを取り出した母親は娘の名前を、サ、ギ、リとばらばらに切り離し、その三つの単音を部屋の片隅に撒いて、無意味なごみにしてしまう。名前を失った娘は三つの言葉をつなぎ合わせようとするが、上手く行かない。ギサリ、リギサ、サリギ、どれも冷たい排他的な響きが空気を震わせる。
どうしてあのサギリを自分は不幸にしたいのだろう。あの親子が何かムカつくというわけではない。あの名前の響きがただ冷たく聞こえて、それだけで、何だかイヤになる。
携帯が鳴る。哲夫からだった。
「もしもし」
「もしもし好きだよ、マリ。いまどこ?」
思わずマリは笑ってしまう。
「公園、バイトの途中だよ」
「え、何? 何してんの? ぼきぼき聞こえるけど」
「アイス食べてるの」
哲夫の笑う声が返ってくる。
「あのさマリさ、今日は何時に終わる? 秋元が競馬で当ててさ、昨日雨だったろ? 雨は秋元の当たりが出る日でさ、絶対行ける、って思ったら、本当にすごい配当が出ちゃって、帰り道が怖いくらいだったって。それで秋元が飲み代おごってくれるって言うから今日、行こうかーって言ってるんだけど、来ない? 全然じゃんじゃん奢るよ、とか言ってるし。幸運を人に分けないでいると、欲ばっかりついて今度は悪いことが起こるんだってさ。だから秋元は急いで慈善行為をしなくちゃいけないんだってさ。あと、理沙と裕子も来るって。理沙が、絶対マリに会いたーいって言ってる」
マリは、理沙のふんわりとしたスカートのシルエットを思い出す。
「分かった。行く行く。終わったら電話するね。秋元くん、太っ腹だね。一体いくら儲けたの?」
「それが教えてくれねえの。俺らに奢るくらいだから、かなりすごいんだろう。百万くらい? それだけあれば十分マリの学費になるよな。あ、そっか、秋元がマリの学費を出してやればさ、それって、かなりの慈善行為になるんじゃね? てゆか、もはや青年篤志家並み? すげー、きっと一生分の厄が落ちるよ。俺、マリの学費のこと言ってみる」
「やめてよ。言わないで、そんなこと」
「あ、うん、マリが嫌なら言わないよ。ごめん」
「いいの、謝らないで」
「うん、じゃあ、鳥吉に六時な。六時だよ、ちゃんと来いよ、じゃな、好きだよ、マリ」
「うん、分かった」
マリは電話を切る。携帯の画面が落ちる。目を下ろすと、膝の上にはサギリの契約書がある。マリはサギリの片仮名の文字を指先でなぞる。
午後の公園は音を失ったみたいに静かだ。たった今話したばかりの電話の向こうの哲夫、哲夫のいる世界が、何か別の出来事のように思える。
でもきっと六時になったら、何も無かったようにマリは哲夫の横にいる。鳥吉に行って、秋元の奢りでご飯を食べ、理沙や裕子とおしゃべりして、多分その後カラオケに行って、甘いもの食べて、歌って、笑って、……。
夢の中で母が踊っている。経典の言葉を、歌に乗せて呟きながら、肉体を空気に溶かして踊る。激しく頭を振り、祈るように組んだ両手でリズムを刻む。
小さなマリは壁に背中をくっつけ、ひざに額を押し当てている。ひどくお腹が減っていたが、母に言っても怒られるだけだから黙って我慢する。神さまがお帰りになられるまで、何も食べさせてもらえないことは分かっている。
マリは目を閉じて、ここではないどこか遠くへ行こうとする。でも母の歌声が耳から入ってきて、上手くいかない。折り曲げた膝がもっと小さくなるように身体を縮ませる。だんだん息が苦しくなってくる。もっとぎゅっと目を閉じる。でも、どこにも行けない。神さまは嫌いだ。いつも隠れているだけで、助けてくれたことはない。ママ、ママ、ママ、そう叫びたい思いを飲みこんで、マリは息をひそめる。
目覚めが悪い。体がだるい。寝不足が続いている。
金縛りはほぼ毎日、一瞬の時もあれば、長く続くような気がする日もある。夢と意識の境で、息の吸い方を忘れたようになる。
原因ははっきりしている。もうあのアルバイトをいっそ辞めようかと、そう考える。マリには分かっている、何よりも逃れたいのは、見知らぬ他人のインターホンを押す、あの瞬間だということ。
インターホンの前に立つと、必ず横に母がいるような気がする。母のことを考えまいとしても、ボタンを押す指先が、母の指と重なって見える。
こどもの頃、マリは母に連れられて、布教活動に回っていた。
知らずに同級生のドアを叩くことも珍しくなかった。ドアを開けた同級生がマリと目を合わせ、あ、と息を詰める空気が流れても、母はまったく意に介さず、躊躇が流れるドアの隙間に素早く片足を差し込んだ。
「皆様の幸福のためにお祈りさせていただきます。わたしたちは空腹を満たすほどの力はないかもしれません。けれど、渇いた喉を潤す一杯の水を与えて差し上げることはできるでしょう」
口上のようにすらすらと、母は一言一句違えることなく、あらゆるドアの前でそう言った。しめやかで、厳かなリズムを響かせ、母は人の心を誘い出そうとした。あからさまな技巧は警戒心を与えるだけだった。母の布教活動が上手く行ったことは余りない。
神さまって何なのか、マリには分からなかった。成長すればするほど、その思いは強くなった。幼い頃は神さまとは母そのものだった。母がいなくては命を繋ぐことができない、本能的にそう感じていたからかもしれない。