ハピネス
暴れ出そうとする思考を遮って、マリは哲夫を思う。後ろではまだ哲夫が温かいベッドで眠っている。意味なんて考えない。何も考える必要なんてない。
ピンポオン、と鳴らすと幼い声が「はあい」と返事する。
インターホンに取り付けられたカメラに向かって、マリは緩く微笑みかける。余り親切なのは怪しまれる。執拗さのない笑みを作るのは案外難しいことだといつも思う。
「おねえちゃん、だあれ?」
舌足らずな声で女の子が言う。マイクに近づきすぎて、鼻息がふうふう混じっている。
「お子様の英会話教室、マリオンキッズクラブと申します。特別体験レッスンのご案内に参りました」
「英語教室?」
と、多分母親の声がする。
「はい。今回、新しくこの町にお教室を作らせていただくことになりまして」
ドアが開く。髪を束ねた女が顔を覗かせる。
「無料体験ですか?」
母親の脇をすり抜け、女の子がマリの前に立つ。
「うわあ、かわいい! お名前なんていうの?」とマリが言う。
「サギリ」
「へええ、サギリちゃん。素敵な響きね」
そうサギリに話しかけ、同じ笑顔で母親の方を振り返る。
「もし、お時間よろしければ、ご説明させていただけないでしょうか」
母親はわずかに戸惑った表情を見せる。視線がマリの頭から下に下りる。まあ、ただの若い子だし、という判断が下されたのが分かる。
「ええ、どうぞ」
マリはちょっとお借りします、と断って、玄関のたたきに資料を広げる。
「かわいいお嬢さんですね、ああ、ほんと連れて帰りたいくらい。私、結婚したい願望が強くて、早くこどもが欲しいんですよ。うらやましいなあ。こんなかわいい子と一緒に暮らせるなんて。私も早く結婚したい!」
母親は苦笑する。
「でも大変よ、子育てなんて。独身時代が一番気楽でいいわよ」
「えー、そうですか? 侘しいですよ、ほんと。毎日働いて食べて寝るだけで、張り合いがないというか。やっぱ子どもさんがいたら、日々刺激があって、何より愛情に満ちた生活じゃないですか?」
母親は黙ったまま、にこりと小さく笑う。
「すいません、つい小さな子を見ちゃうと興奮しちゃって。このご近所でも何軒か回らせていただいたんですが、英語教室に興味をお持ちの方が多いみたいですね。体験のご予約をいくつか頂戴しました」
「あの、失礼ですけど、お月謝はどのくらいなのかしら」
「ええ、そういった資料はお作りしていないんですよ。実は今回、出張体験レッスンをご紹介させていただいております。講師が直接お子様とお母様の元に出向いて、一時間ほどのレッスンと、具体的なカリキュラムをご説明させていただきます」
「それって、無料なんですか?」
「すみません、実は無料ではないんですよ。きちんとしたレッスンをさせていただきますので、一時間千円ちょうだいいたしております」
「あなたが講師となるんじゃないの?」
ママー、と飽き始めたサギリがスカートの裾を引っ張る。母親は無視する。マリはサギリに笑顔を向けて、
「私はまだ学生でして、小さなお子さまにお教えするのは、幼児科専門の資格を持つ講師になります」
「あの、大体でいいので、月々のお月謝はいくらくらいなのか、教えてもらいたいのだけど。うちも予算の幅があるから、せっかく体験を受けても通えるかどうか……」
ママー、とサギリはむずがり母親の背中によじ登ったり、膝を叩いたり首にしがみついたりする。サギリの手が母親の顔に当たる。母親は無言でサギリの手を払いのける。
「そうですよね。申し訳ありません。お教室のこと含め、様々な細かいご説明は体験レッスンのときに講師からお話することになっているんですよ。体験レッスンに関しましても、お子様ひとりひとりの適正を確かめるため、出張体制を取らせていただいているんです」
「ママ、もういい!」
サギリが地団駄を踏む。母親の眉間に皺が寄る。マリはにっこり笑ってサギリに話しかける。
「ごめんね、サギリちゃん退屈だよね。そうだ、まだお歳を聞いてなかったね。How old are you? Two? Three?」
言いながら指を立てて質問を示す。
「三歳」
サギリがそう答えると、マリは、Three、と言い直す。サギリが真似をして言うと、
「すごーい! お勉強していらっしゃるんですか? Thの発音ってすごく難しいんですよ。サギリちゃん、とっても上手!」
母親は困ったように首をかしげる。
「When your birthday?」
サギリは首を傾げる。
「八月……です」
と母親が答える。マリは驚いたように目を見開く。
「あら、私も八月なんですよ。何日ですか?」
「二十一日です」
「えーっ、うそっ、私と一緒! 同じ誕生日だよ、サギリちゃん!」
サギリは良く分からないというように首を傾げる。
「こんなことってあるんですね。びっくりしちゃった。八月二十一ってほら、夏休みじゃないですか。だから一度もお誕生日会を開くことができなくて。なかなか不利なポジションなんですよね」
母親は口に手を当てて可笑しそうに笑う。
「そうそう。私もこの子を生んだときに真っ先にそれを思ったの。予定日は九月だったから、あ、だめ、まだ早いっておなかに呼びかけたんだけど」
「あのね、サギリのママはね、三十五」とサギリが言う。
「こら、恥ずかしい。もう、何でも口に出して言っちゃうのよ。油断も隙もない」
母親は娘を小突き、マリは目に涙を浮かべて笑う。母親もサギリを抱いて笑う。ひとしきり笑い合ってから、母親が途切れた会話の糸を拾った。
「そうねえ。実を言うと英会話をさせたくて教室を探していたところなの」と微笑み、「いいわ、それじゃお願いするわ」と言葉をつなげる。
「ありがとうございます」
マリは頭を深々と下げて、ボールペンを添えて申込書を手渡す。ご印鑑も必要なのですが、と付け加えると、母親は難なく判子を押してくれる。
出張体験をまたひとつ取れた。レッスン代の千円は、そのままマリの歩合となり時給にプラスされる。一日三件も取れれば、アルバイトとしては儲かる方だった。
笑顔で、愛らしく、こどもの容姿、服装、名前を誉める。結婚したい、子どもがほしい、うらやましい、アルバイトの研修期間に口頭で教わったマニュアルをなぞっているだけだった。
誕生日が一緒、という偶然を作るのはマリ自身が考えた。偶然の一致に、ご縁、なんてものを感じる人は案外多かった。何の根拠もないのに、マリに対して親近感を抱き、体験レッスン料の千円を承諾する理由になる。
その後の出張体験には、講師とサブアドバイザーと呼ばれる者が二人で出向く。レッスンは実質二十分、後は商品説明が行われる。幼児期から中学まで十年間の教材、DVD、おもちゃがセットになって、四十万。似たような教材販売の中ではかなり安い方になる。
購入した教材を用いる教室もちゃんと開く。だから訪問販売というわけではない。マリたちアルバイトも、講師たちもそう思っている。けれど、このアルバイトを始めた頃から金縛りが起こっていた。それは明らかなことだった。