作品集Ⅱ
飽くなき追求
その日の夜は、大雨だった。
人影はなく、虫や動物たちの息の音も聞こえない。
しかしどこからか、耳に張り付くほど煩い雨音の間を縫うようにして、革靴特有のかつかつかつ、という忙しない靴音が響き始めた。
背の高い男で、白衣を身に纏っている。傘は差しておらず、手には大きな鞄。髪は雨でぺしゃんこだが、前髪も襟足も伸び放題だ。きっとこの分だと、無精髭も相当だろう。
やがてその白衣の男は、小さなアパートへ消えていった。
玄関から漏れる明かりに照らされた刹那、男の口角は愉快に吊り上がった。まるで、これから始まる世紀の大舞台を楽しみにしているような悪人面。見るもの全ての胸中をざわめかせるような恍惚。白衣の裾を揺らしながら、扉の向こうに消えていった。
アパートで毎晩行われる儀式をするため、雨の日も風の日も嵐の日だって、男は此処へやってくる。
部屋へ入るなり家中の電気を点けて回り、鞄を置いてびしょ濡れになった白衣を脱ぎ捨てた。衣装箪笥から新品の白衣を取り出し、羽織る。それから鞄を再び携え、すたすたと奥の研究室へ。今日の獲物は大きい。
「ただいま。外は大雨で困ったよ」
くぐもった声が、白衣の男に非難がましくぶつけられた。がしゃんがしゃんと檻を揺らす音も、そこかしこから聞こえてくる。
「だが、どんな嵐の日にもいつかは青空が広がる」
そんなことなど気にも留めない様子で、男は続けた。鞄を一際大きな檻の前まで持って行き、中身を取り出す。
出てきたのは、衰弱しきった化け猫。二股に分かれていたはずの尻尾は片方もぎ取られ、耳はなく、髭もちぐはぐだ。漆のように闇のように黒かった体毛には、赤い血の染みが点在している。
「これはお前の代わりだ。私の意図していることがわかるかね」
檻の中の人影は、たった一つの眼球を驚愕で染めた。
「耳はまだついているだろう。分かるかね、と聞いている。どうなんだ」
何度も何度も軋む首を縦に振る様を見た男は、檻の鍵を開け、生贄を外へと引きずり出す。周りの獣たちが、より一層激しく喚き立てた。
「足も手も無事なのだから、何処へでも好きなところへ行くがいい」
男は興味を既に化け猫へと惜しげもなく注いでいる。よたよたと覚束無い足取りで、生贄は研究室を後にしようと一歩踏み出した。獣たちの嫉妬を一身に背負って。
ところが生贄は、扉の前まで来ていたのに、死ねという言葉で足を止め、振り返ってしまった。
刹那、耳の奥で愚か者と囁かれ、強烈な痛みが全身を貫く。声帯をなくした生贄は、汚い嗚咽を漏らしながらも必死に激痛を散らそうとした。
一方、白衣の男は、化け猫の臓物を抉り出そうとしているところで、剃刀を片手に鼻歌を歌っている。毛が剃り終わると、持っている剃刀で剥き出しになった皮膚へ刃先を当てた。小刻みにふるふると震えている。その様子がおかしくてたまらない。
ぱっくりと皮膚に切れ目を入れると、手袋もせず躊躇もせず、素手で化け猫の骨を折りながら体を拓いていく。死ぬことのできない化け猫。暴れる体力もなく掻き回されていく。
また、扉の前でごみのようにひしゃげた人とも言えぬ物体。こちらは時折痙攣しながらも、息を吸って吐いている。
「不死身というのは、気持ちがいいだろう」
その言葉の矛先は、化け猫か、生贄か。
はたまた自分自身か。