作品集Ⅱ
終末
遠い記憶を手繰り寄せて、僕はゆっくり沈み込む。泳ぐように心の奥深くまで潜ってようやく、わかることがあるのだと教えてくれたのは確か君。僕の隣でうつむきがちに、足をふらふらさせながら、ぼそりとつぶやいた君は、覚えていますか?
受け入れられるもの、拒まれるもの。
その行き先は、たぶん絶望とか失望とか空虚とかそんなもの。
「この世の絶望なんて、たいしたことはないんだよ」
そんなことも、言っていた気がする。
でもさすがに、おおもとが消失してしまうとなれば、ほんとうにこの世のすべてがどうでもよくなってしまうものなんだね。
「聞こえていますか?」
そちら側は、今日も平和でしょうか。
僕らも、たぶん、もうすぐ、そう遠くない未来、そちら側へ、いけると思います。
「だけど知ってる?」
僕の深層心理に潜む君が口を開いた。
「死んでもわたしには会えないんだよ。死後の世界で、生前仲良くしていた相手や愛し合っていた相手、恋焦がれていた相手に会えるなんていうデマが広がってるみたいだけどさ」
そう続けて。
「実際、みんなさまよって、苦しんでるよ。過去を振り返ることもできないくらいに、みんな必死になって死んでる」
僕はただ呆然と、そしてわずかながらの肯定しかできなかった。
おおよそ、なんとなく、わかっていたけれど。
「だからね、お願い」
少し強張った表情を浮かべて、僕を手招く。
「こっち側に来ても、あなたは過去を振り返って、わたしとの思い出を忘れないでほしいの。それがどれだけ苦しくて悲しいものなのかは、計り知れない。でも、最後のわがまま、覚えてる?」
ああ、そんなのあったな。
「もちろん覚えてるよ」
忘れることなどできやしないのだ。今でもこびりつくように脳みそを這いずり回っている君の面影。
「確か……」
「言わないで。言ったら、わたし、もう動けなくなりそうだから」
そういって、そっと離れていった君の顔をふと見つめる。
「もし会えたら……」
もしも。
そんなのあてにならないし、気休めにもならない。でも、やっぱり期待してしまうのが、人間というものだろう? 少なくとも僕はそうだ。
「うん」
「手をつないで、この世の終わりを見届けよう」
素敵、そうつぶやいた彼女の影は、薄くなる。
「忘れるなよ」
「あなたこそ」
時間なんてくそくらえだ。
何度思っただろう。
僕と君とを引き剥がす、この見えない壁。時間には、終わりがあるから。
「じゃあ、またね」
うつむいたまま、そう告げて。
なんとなくしたいやな予感に突き動かされた僕は、顔をあげる。
同じタイミングで彼女も僕の瞳を一心に見つめた。
「うん、またね」
この世の終わりまで、それまで、ほんの少しだけ。
現在に引き戻された僕は、散らかった部屋を無意味に見渡す。
今日は、何年の何月の何日だろうか。
カレンダーは色あせて、字なんてこれっぽっちも見当たらない。仕方なく、リモコンに手を伸ばしてテレビをつける。
画面に映し出される雪景色。
ああ、そうか。
今日は大晦日。いいこともいやなことも、帳消し。
チャンネルを回しても、不思議なことにずっと雪景色。大晦日でも元気に働くテレビ局なのに、どうしてだろう。日本は僕の知らない間にさぼり大国にでもなったのか。
しばらくするとそれは、花火に変わった。どこかの図書館の窓から見渡す、色とりどりの花火。それから満点の星空が映し出されて、僕は息を呑む。違和感なんてすっかり忘れて、食い入るように、見つめた。
かすかに聞こえるBGMは、G線上のアリア。
なんてロマンチックな大晦日だろうか。
……現実逃避は、これくらいにして。
今日は、この世のすべてが眠りに就く日。
僕はしぶとく今日のこの日まで生きてしまった。
君との終わる未来を、僕一人で迎える。
目の前の星空をまぶたでさえぎって、僕はふわりと君のもとへ降りていった。
だけど、僕の予想通り、君は来ない。
あの日みたいに、来ない。
いつまで待っても、来ない。
雨が降ってきて、雷が遠くで響きだして、野良猫が一匹、僕の隣で息絶えても、来ない。
君はもう、どこにもいけなくなったんだ。
あの日を境にして、僕らは再び顔を突き合わせることなどかなわなくなってしまった。
思い返すことも、思い残すことも、なにもないよ。
ぎゅう、と抱えたひざを胸に寄せて。
「結局、愛なんてわからずじまいだったけど」
芝居がかった僕の声が反響して、部屋に充満する。視界は徐々に、歪んでいって。
「もう少しだけ生きてみたいって、思えたかな」
やがてあたりは白み、新年の始まりを告げた。
その光は神々しく輝いて、僕を包み込んで、街を包み込んで、世界を、宇宙を包み込んで、果てしなく広がって、僕をあの世界へと連れて行く。
しばらくその光に身を預けて、ぱっと目を開けた。
目の前に広がる無の世界。
これからが、僕の人生のような気がした。
どれくらい歩き続けただろうか。
世界が終わりを迎えてから、たぶん何十年。何百年。いや、何千年?
ただただひたすら歩き続けて、過去を振り返り続けて、君の存在をいつも忘れずに、この胸に携えて、歩いてきた、今日までの気が遠くなるほどの時間。
報われなくても構わなかった。
だから目の前に暗闇が現れたとき、僕はすぐには気づけずに、じっと見つめていたのだ。
やがてそれが人型だとわかると、僕はわずかに後ずさる。
言い知れぬ恐怖が、全身をさらって、支配した。
その人影は近づいてくる。
よろよろと頼りない足取りで、僕のほうへ一直線。
僕はようやく、その姿をはっきりと認めた。
「世界は、終わったの?」
お互いの息が、鼻先にかかるほどの距離まで縮まった僕ら。
「ううん」
「違うの?」
くすりと僕は含み笑いをして見せた。君はくすぐったそうに目を細める。
「世界は、始まったんだ」
だから。
「おはよう」