作品集Ⅱ
【無題】
足音が響く。
目の前の人物は、長い指で棚に並ぶ本をなぞる。
「さあ、はじまるよ」
僕の方など振り返りもせずに、止まることなくその黒髪を揺らして窓を見つめていた。僕もならって窓へ視線を寄越す。田畑と電線が虚しく整然と並んでいるだけで、人の姿は見当たらない。ぽつりぽつりと農家がちらつく。
ぴたりと足を止めた瞬間、ひゅーっという音が聞こえてきた。刹那の静寂、ぱぁあんっ。
「わっ……、花火……?」
「いかにも」
そう言ってこくりと頷く。右足を軸足にしてこちらを振り返ったその顔には、怪しげな微笑が浮かんでいた。ぞくりと寒気がする。
「綺麗だろう? 素晴らしいよ、まったく」
その後も立て続けに5、6発の花火が田舎の夜空を彩り、しゅるしゅると枯れていった。儚いものだ、と前方から聞こえた気がした。
「……まさか、このためだけに僕を?」
怪訝そうな顔を作って問いかける。
「君と一緒に見たかった、じゃあ駄目か?」
言葉に詰まる。実際、喉も詰まってむせてしまった。
いきなり何を言い出すんだ、こいつ。
「大丈夫か。そんなに衝撃的?」
「うん、まあ。君の冗談にしては上出来じゃないかな」
「ほんとのことなのに、まったく。君はひどいよ。実に非人道な奴だ」
呆れたように肩をすくめ、長い溜息をつかれる。本気にしろって言うのか、なんて無茶な話だ。
「……君ほど説得力のない言葉を吐く人間を、僕は見たことがないな」
「だろうね。君は僕より何倍も世界が狭い人間だから。僕みたいな人間、腐るほどいる。そして……」
そこで言葉を切ると、おもむろに一冊の本を棚から抜き取る。ぺらぺらとめくって、とあるページで指は止まった。
「花火のように散り、本のように書き記されていくのだ。君はどうあがいたって主人公にはなれない」
嘲笑った口元は、誰かにとても似ている。
指をさされた僕はいたたまれなくなり、首筋をぽりぽり掻いた。伸びすぎた爪に、浮き出ている血管がいちいち引っかかる。小指の爪でぷつりと肌に亀裂を入れると、小さな痛みがじんわり広がった。
力加減を見誤って、僕の首からは血が垂れはじめる。服の襟元は赤く染まりだし、爪はさらに食い込んでいった。小指で皮を突き破ると、指の腹に血液が付着する。
「別に、主人公なんて面倒な役、僕から願い下げだね」
今度はこちらが溜息をついて、目を伏せるついでに小指の様子も確認。予想より多量のような気がした。べっとりと赤い血液が、第一関節のあたりまで塗りたくられている。
指の溝にあわせて枝分かれするように、爪の表面、爪と肉の間、水掻き、指の脇へと流れていた。
「やせ我慢はよした方が良い。身を滅ぼす。そんなの、馬鹿のやることだ」
「僕は馬鹿だよ」
「君も馬鹿を履き違える大馬鹿者だね」
「うん、知らなかった?」
「考えたこともなかった。考えたくもなかった」
真っ赤な小指を眺めていても仕方がないので、とりあえず舌先で掬い取ってみる。かぴかぴになりかけていた血液は潤いを取り戻し、唾液と混ざり合って舌の上に乗っかった。顔をしかめたくなるような生臭い味がすぐに広がって、ぺぺっと吐き出す。
「君、さっきから何しているのさ」
さすがに不審がられた。細くなった目が、花火の光を受けてきらりと輝く。
「特になにも。くだらないこと」
「まあ、君がくだらないからな」
それから興味を失ったように窓の外を見遣った。単純に、僕への興味が薄いだけかもしれない。
赤い火花が、まるで本物の花でも咲かすように中心から花弁を広げて、ちりぢりに散っていく。緑色した閃光が、外を凝視している奴の横顔を華やかに照らした。主人公の在り方が、その横顔に滲み出ている。
「でも、それでもそんな君が、嫌いじゃないよ。胸糞悪い気分だけど、嫌いじゃない」
黄金色のすすき花火が、上がっては弾け、弾けては上がって……。
「それはありがたいね。味方は多い方が良い」
芝居がかった笑顔を向けてやる。分かりやすい反応が返ってくる。つくづく、奴は主人公だ。
「僕も君が嫌いじゃない。良い奴だとは思わないけど」
「それは意外だな。てっきり嫌われているのかと思っていたよ」
そしてまた、でもね、と続ける。
「でも、もう終わりだ」
目の前で、僕も良く知っている歌を口ずさみ、引っ張り出した本を小脇に抱え、こちらに向き直った。桃色の花火に照らし出された頬には、涙の痕がうかがえる。
艶やかな黒髪をふんわり揺らして、まるで世界のすべてを知り得たような顔をして、大きく息を吸い込んで。
「実に儚いものだ」
ぼそりと呟く。
「どうしてこんなに儚い存在なのだろう。昔はこんなに感傷的にはならなかった。綺麗だとは思えたかもしれない。でも、何処か冷めたような目で見ていた。まるで本を目でなぞるように、ただ単調に、毎日を生きていた。……鍵括弧では括れない気持ちなんて、別段だれかに伝えたいなんて思わなかった。なのに、最近はめっぽう弱くなってね。君みたいな存在が、必要不可欠になっていた。綺麗なものや繊細なもの、儚い花火みたいなものを見ると、こうして情けなくも涙が溢れて仕方がないのだ。本を読んでいても、些細な科白で鼻がつんとする。気付けば泣いているのさ」
ただ、ひたすらに、気丈に、そう語った。
僕は胸にこみ上げるものを抑えることなく、垂れ流しながら聞いていた。
……こいつこそ主人公だと思っていたのに。
「時間、平気なのか」
腕時計に目を遣りながら問うと、ぐすんと鼻を鳴らして手首の辺りで涙を拭って、本を大事そうに抱えて、はにかむ。
結局、人は人の中で生きて行くものだよ、そう言い残して。
あいつはここを発った。
持ち去ってしまった本は僕も読んだことがある。実にあいつらしいと思った。
「まったく……」
やっぱり、あいつは主人公だ。