セクエストゥラータ
六月二十二日、ミラノのホテルをチェックアウトして、ヴェローナへ移動。さすがに試合当日なので、多くの日本人が目に付いた。
ホテルにチェックインし、ヴェローナを一通り観光したあと、スタジアムへと向かった。
スタジアムに着いても、黒木先輩からの連絡はなかった。
スタジアムの周囲は既に人で埋め尽くされていて、早くも異様な熱気に包まれていた。
あちこちでそれぞれの母国を応援する声援が湧き起こる様子を、幾つものカメラが撮影していた。
いざ試合が始まれば、僕らもあんな風に飛び跳ねて声を嗄らすのだろう。
「はい、オッケーでーす。スタジオ戻りましたー」
「十五分空きマース」
日本へのテレビ中継が終わったのだろう。時差を考えると二十三時のニュースだ。
ふと、リポーターの女性と目が合った。
「祐クン?」
聞き間違いなんかじゃない。その人は確かに僕の名を呼んだ。
「祐クンでしょ?」
もう一度僕の名を呼びながら駆け寄ってくる。
「ええっと?」
幾らか年上に見える彼女は、躊躇なく僕の肩に手を置く。
「久しぶりね。元気そうでよかったわ」
事態が飲み込めていない僕は目を白黒させることしかできない。しかし、後頭部に感じる殺気は立ち止まることを許さない。
「すいません、お会いしたことありましたっけ?」
「覚えてないかな? 私は池上愛花。二年ぐらい前に取材させてもらったんだけど。インタビュー」
言われて思い出した。すぐに思い出せなかったのはテレビ用に濃い化粧をしていたせいだろう。
彼女が僕のところに取材に来た回数は二回。
一回目は、五輪サッカーの特集で僕のところに取材に来た。既にサッカーを離れていた僕には、選手としてではなく、ある選手をよく知る人物としての取材申し込みだった。
その選手というのは、僕のサッカー人生で最後となったあのパスを出したチームメイトだ。彼は五輪代表候補に挙げられていたんだ。
どうせ都合よく編集されるのだからと思って、それらしいことを並べておいた。
数日後、彼女は再び僕の前に現れて、こう訊ねてきた。
『キミはもうサッカーはしないの?』
背中を突かれ、僕は現実に引き戻された。
「どちら様? 知り合いなら紹介してよ」
奈津美が耳打ちしてきた。
「こちらは愛花さん」
「池上といいます。リポーターをやらせてもらっています」
三人はぎこちない挨拶を交わしている。「どっちが本命なの?」と冷やかされる展開が読めてしまった。
「ちょっと待ってて」
彼女は返事も聞かずに振り向いた。取材スタッフのところに戻り何事か話している。
「綺麗なヒトよね」
「アンタも隅に置けないねぇ」
うん。この口撃も予想してたから大丈夫。
戻ってきた彼女は一枚の名刺を手にしていた。
「お願いがあるんだけど、いいかしら?」
悪い予感はしない。
「なんでしょう?」
「この試合を見た感想を教えて欲しいの。サッカー経験者の目にはどう見えたのか、それは私の見解とどう違っているのかを知りたいのよ。こんなこと他の人には頼めないじゃない? あくまで私自身の勉強のためだから。ね? お願い!」
奈津美と由佳の様子を窺うと、引き受けてあげなよ、という目をしていた。……と思う。
「じゃあ、はい、これ私のアドレスと電話番号ね」
彼女はにこやかに微笑むと、手を振りながら取材スタッフのところへと走っていった。
僕は、彼女が僕のところへ取材に来た経緯を話した。
五輪代表候補に挙げられていた元チームメイト、北川大介。
中盤の選手である彼を語るのは、彼のパスを一番多く受けてきた僕が適任だと思ったらしい。しかし、彼は五輪代表から落選し、その内容が表に出ることはなかった。
二人はその続きを聞きたがっていて、それでも聞くことができずに我慢しているのが伝わってきた。
サッカーが関わる話題になると、僕たちは未だに緊張感に包まれてしまう。尤も、その原因は僕にあるんだけど。
後日、足の怪我を知った彼女が再び現れたことについては、二人には話せなかった。
姓ではなく名で呼んでいたことで、奈津美の機嫌を著しく損ねてしまった。そういえば、なんで名前で呼ぶようになったのだろう?
ふぅ。僕は大きく息を吐いた。
名刺の裏に、仕事用ではないと思われる携帯番号とメールアドレスが記されていたことは、二人には黙っておいたほうが良さそうだ。
黒木先輩は開始ギリギリに連絡してきた。入場はできたらしく、試合後に合流することになった。
* * *
試合が始まった。
中盤でボールを奪い合う展開が続く。
スペインのプレスは想像以上に速く、日本は苦し紛れにバックパスを選択する。
その瞬間、スペインが動く。
前線の選手が一直線にボールへと突進を開始。急激なテンポアップに驚いた日本の選手は、大きなトラップをしてしまう。
まさにタッチの差で繋がったボールは、右サイドの大沢へ。彼は早く正確なロングパスに定評がある選手だ。
予想通り、そこから一気に前線へとボールが放り込まれ、日本が世界に誇るポストプレイヤー・田所の頭を経由して、相手守備陣の裏へと転がる。
「遅いよ!!」
僕は叫んだ。
田所とコンビを組む矢野が飛び込むが、スペインのカバーが一歩早く、ギリギリのところでクリアされてしまった。
似たような展開が何度も続いていたせいか、僕は思わず叫んでしまっていた。
「右サイドの大沢にボールが渡った瞬間に動き出さないと! クロスが上がってから走ったって対応されるに決まってる!」
上から見ていた分を差し引いても、もう一歩は早く動き出せたはずだった。
確実に決めることはできなくてもシュートまでは行けた。こぼれ球がどうなるかは誰にも分からない。クリアボールがカウンターになるかもしれない。でも、シュートで終わるのは守備に繋がるんだ。
前半はお互いに無得点のまま終わった。
見ていてもどかしかった。
『日本 攻撃力B+』
『今の日本代表をその目で見て、足りないものはお前だと気づけ』
「ね…? ホントは……さ」
奈津美は明らかに僕を心配している。
その隣にいる由佳も同じ気持ちなのだろう。
でも、やめてくれ。
その先を言うのは。
「やっぱり……サッカーやりたいんだね……」
「違うよ?」
僕は笑ってみせた。
無理矢理作り上げた嘘の笑顔。足を折ったあの試合の夜に、病室で手に入れた微笑みの仮面。
心は痛むけれど、その痛みが僕の笑顔をより優しいものにする。
「経験者はさ、不甲斐ないプレーを見ると余計に腹が立つんだよ」
試合は、コーナキックに頭で合わせた田所の二得点をもぎ取る活躍により勝利した。日本チームは一失点を喫した。
黒木先輩に電話して居場所を告げる。奈津美と由佳はその間にトイレに向かった。
一人になった僕は、今日の試合のことを考えていた。黒木先輩に言われたからでもなく、愛花さんに頼まれたからでもない。
何度思い直しても、出てくる感想は一つだった。
史上最強といわれている日本代表の穴、それは田所選手とコンビを組む“エースストライカー”の不在。
『足りないものはお前だ』
僕の頭に響く黒木先輩の声。