セクエストゥラータ
「セニョーレ クろーキから伝言をあズかっています」
カタコトの日本語とともに差し出された紙には、簡潔な日本語が記されていた。
黒木先輩とは、試合当日に会場で合流することになっている。
受付には、現地で使える携帯電話が預けられていた。国際ローミングサービスを利用した海外用レンタル携帯電話だ。
さすが先輩だ。抜かりがない。
チェックインを済ませて部屋へ。
二部屋用意されていて、変な気を遣った由佳が一人でいいと言いだしたけれど、異国の地で女の子を一人にするなどできるはずもない。僕は一人で部屋に入り、その綺麗さにまずは一安心した。
現在時刻は、六月二十日の午後二時。
今日と明日はミラノを観光し、試合が行われる明後日に、試合会場があるヴェローナのホテルへ移動することになっている。よくホテルが予約できたものだと感心する。
「優秀な通訳がいるから安心よね」と、奈津美は笑っていた。
勿論、その通訳とは僕のことだ。
言葉の不安が無くなって安心したのか、由佳の手にある本が観光名所を紹介するものに変わっていた。
まず向かったのはドゥオーモ。
ドゥオーモとは、それぞれの街を代表する教会堂を示す言葉で、ミラノの他にはフィレンツェやナポリのドゥオーモが有名だ。
ミラノのドゥオーモはミラノ大聖堂とも呼ばれ、ミラノという街の象徴であり、また世界最大のゴシック建築物でもある。
頂上に聖人を頂く百三十五本もの尖塔があり、奈津美は本当に百三十五本あるのか数えようとしていた。放っておくことにする。
いつも元気な由佳が少し寂しげな顔をしていた。
「どうしたの?」
「愛するダーリンと二人で見たかったな、と思ってね。実はね、イタリアにはあたしも来てみたかったのよ」
由佳は僅かに視線を落とす。
僕がいろんなことを言いあぐねていると、由佳は急に走り出し、奈津美に後から抱きついた。そのおかげで、どこまで数えたか分からなくなったらしい。
そういえば、由佳の浮いた噂は聞いたことがない。
一人のイタリア人の男が奈津美に近づいていった。尖塔を指差し数えるその腕に紐を掛ける。外国人観光客を狙った、詐欺まがいのぼったくり商法だ。
にこやかな笑顔で近づいて無言で腕をとり、ミサンガを巻きつけていく。そしてそれが巻き終わると、代金として法外な額を要求されるのだ。
止めさせようと僕が走り出す前に、由佳が男の手をペシペシと叩きながら大声で騒ぎ出した。
「ちょっと! 何よアンタ! 離れなさいよ!」
男はあっさり離れていった。時間の無駄だと判断したのだろう。
更に言えば、他の観光客に注目を浴びてしまうと次の仕事がやりにくいからだろう。
奈津美は肩を抱いて震えながら、その場に座り込んだ。その顔色は悪い。
奈津美はストーカーに悩まされていたことがあるから、見知らぬ男に腕を掴まれたことで、その恐怖を思い出したのだろう。
由佳はぼったくり商法であること知っていたわけじゃなくて、純粋に奈津美が心配だったわけだ。我ながら、不甲斐ない。
それから三つの観光名所を回り、ホテルへと戻った。
由佳が持って来たデジタルカメラは、到着してすぐに電池が切れてしまい、役立たずになった。更に、コンセントの形状が違うことを知らなかったらしく、変換プラグを用意していなかった。つまり、日本に帰るまで充電することができないってことだ。
広場で売っていたアイスが美味しかった。半日を費やした観光の感想はそれだけだ。
観光には、時差ボケを解消するために身体を疲れさせる目的もあった。しかしまだ足りていないようで、逆に身体がウズウズする。
ジョギングに行くわけにもいかないし、腕立て伏せと腹筋運動をやることにした。
* * *
「ふんっ ふんっ」
コンコンと、ドアをノックする音。
誰だろう? ノって来たところだったのに。
ドアを開けると、そこには奈津美の顔があった。
「一人で寂しいかなと思って」
「ちゃんとあたしもいるからね」
奈津美の後から由佳がひょっこり顔を出す。
「何アンタ、なんで汗だくなの?」
由佳は眉間に皺を寄せていた。
「あぁ、少し筋トレを……」
「晩御飯どうしようかと思って聞きに来たのよ」
僕の言葉を遮って由佳は更に続ける。
「ホテルにレストランがあるみたいだから、そこでいいよね?」
とりあえず二人を中に招き入れる。廊下で長話は行儀がいいとは言えない。
「ビュッフェの利用券があるから、夜と朝はそこになるよって説明したと思うけど?」
「ほら、言ったでしょ?」
奈津美は得意気に由佳を振り返る。
「聞いてないわよ!?」
奈津美が知っていたということは、僕は説明をしたということだ。つまり由佳が聞いてないというのは、僕が伝えていないわけではなく、由佳が僕の話に聞く耳を持っていなかったということだ。
それに、この後の由佳の行動も予想が付く。
ビュッフェの料理についての不安をつらつらと並べ立て、いざ料理を目の前にすると子供のように目を輝かせて食べるのだ。
「シャワーを浴びてくるから少し待ってて」
予想通りの文言を並べ始めた由佳を無視し、僕は奈津美と話を進める。
「うん。風邪ひかないようにしてね」
このときの奈津美の笑顔が、ほんの少し寂しそうだったことに、僕は気付いてあげることができなかった。
由佳は次々と料理を盛り、そしてそれを次々と平らげ、再び山盛りになった皿を持ってくる。
「元とらなきゃね!」
ビュッフェ形式の食事で『元を取らないと損だ』と考えるのは日本人だけだ、と誰かが言っていた。事実、そういった食べ方はマナーに反するものらしい。
とはいえ、残しはしないだろうから、放っておくことにする。
「これ、美味しいね」
「わたしはこっちの方が好き」
「あ、ほんとだ。美味しいや」
他愛もない会話で心が満たされる。幸せってこういうものなんだと僕は思った。
由佳はついにデザートに手を出したらしい。僕がスイーツと呼ぶのは、なんとなく許されない気がするんだ。ホントになんとなく。
ちなみに、イタリアではデザートをドルチェというんだ。
持って来た取り皿には一口サイズのプチケーキが八個も乗せられていた。あれだけ食べていたのに、よく入るものだと感心する。
「はいコレ」
僕の目の前に、一つのプチケーキが置かれる。
「かぼちゃだったらアンタも食べるでしょ」
確かに。
甘い物は苦手だけど、パンプキンタルトだけは美味しいと思う。
「甘い物は苦手なんじゃ?」
奈津美の疑問は、僕にではなく由佳に向けられていた。
「無理矢理ケーキを奢らされたときに、これだけは美味しいと思えたんだ」
「ふーん、そうなんだ」
奈津美は口を尖らせている。
今まで甘い物を断ってきた手前、バツが悪い。マジ勘弁して欲しい。
「日本に帰ったら、ケーキ屋さん行こうね」
にっこりと笑う奈津美。
「…………はい」
僕は破産を覚悟した。
次の日もミラノ市内を観光し、ピッツェリア(Pizzeria・ピッツァ専門店)やスパゲッテリア(Spaghetteria・スパゲッティ専門店)を楽しんだ。