セクエストゥラータ
大介は、そのまま病室を出て行ったきり、僕の世界には戻ってこなかった。
ごめん。
裏切ってごめん。
入院七日目。
眠らずに起きていた。
夢を見るのが怖かったから、眠りたくなかった。
寝て起きる度に、僕は左足を失う。
だったら眠らなければいい。……なんて、破綻した論理。
一人しかいない部屋はとても静かで。
窓の外からは自動車のクラクションが、扉の外からは看護婦さんたちの足音が。
もっと音を聞いていたくて、窓と扉を少しずつ開けたままにしてもらった。
僕は少しずつ音を取り戻していく。
昼食に、紅鮭の切り身が出てきた。
なんていう朝食染みた昼食。
紅鮭のオレンジが眩しかった。
僕は少しずつ色を取り戻していく。
まだ眠ってしまうのは怖い。
けれど、動けない僕を暖かな太陽がしっかりと包み込み、夢の中へと誘った。
優しく、残酷に。
そして僕は夢を見る。
ピーーー
ホイッスルが鳴る。
―― やった!
……これはゴールを告げる笛じゃないだろ。聞き間違え…るなよ。
僕はフィールドに倒れ込んだ。
はぁはぁ。勝った。もう立てないや。足が無いみたいだ。よく最後まで動いてくれたよ。ありがとう、僕の両足。
あれ? 僕はボールを蹴ったっけ? ボールはどこに飛んでいったっけ?
……ゴール前で蹴ったボールを見失ったことなんか、今までに一度もないだろ!?
チームのみんなが駆け寄ってくる。
ありがとう、やったよ、良いパスだったよ。
なんでそんな顔してるの? 僕たちは勝ったんだよ? なんで心配そうな顔してるの?
……そうだよ、“お前”のおかげで、“チームは”勝ったよ。“みんなは”勝ったよ。
「祐、それ……」
「井上、お前、足が……」
僕は仲間の目線を追った。
……やめろ、見るな。見ちゃいけない。だってその先には…その先には…!!
その先にあった僕の左足は……
「大丈夫だから!!」
声が聞こえた。
「何も怖いことなんかないよ?」
優しく繰り返される、女の子の声。
誰かなんて分からない。
母親の声じゃない。看護婦さんの声じゃない。
クラスメイトの声でもない、サッカー部のマネージャーの声でもない。
まだ夢の中だと思っていた僕は、左足を見ないように硬く目を閉じていて。
目を開ける勇気なんかなくて。
「大丈夫……だから」
大丈夫かって訊かれたことは何度もあった。
大丈夫だよって言われたことはなかった。
だから僕は、その直後に左手に重ねられた温かさを離したくなくて。
「ぅ…あ……」
まだ目は開けられないけれど、その一言で僕がどれだけ救われたのかを、どうしても伝えたくて。
声を絞り出そうともがいたんだ。
「ごめん…ね? 謝ってもどうにもならないの、分かってる。でも…ごめんね」
目を開けることに全力を費やした。
一瞬だけの光景を目に焼き付けることができた。
見たくない現実“ひだりあし”の隣に、彼女“めがみさま”がいる光景を。
「あ……」
彼女は僕の手を強引に振りほどいて。
そして彼女は俯いて、彼女の長い髪が垂れ落ちて、彼女の顔を覆い隠す。
遠のく意識の中で、目だけは病室を去る彼女の後ろ姿を懸命に追っていた。
次に目が覚めたとき、僕は決意していた。
彼女が言ってくれた「大丈夫だから」を嘘にしてしまわないための決意を。