セクエストゥラータ
少しだけ、眠ることができた。
黒木先輩のおかげだ。
『もう少し、だったな』
責めとも慰めとも受け取れるこの言葉のおかげで、気が済むまで責めを受けることができたし、それによって傷付いた心を慰めることもできた。
そんな堂々巡りを繰り返しているうちに、いつの間にか眠っていた。
とはいっても、カーテンの向こうが明るくなっていくのを横目に見ていたから、眠れたのはそれから母親が訪れるまでの数時間だけだ。
ベッド脇から離れようとしない母親に、夕べは少しだけ眠れたことを正直に話した。
それは、昨日の小さな強がりを認めるってことで。嘘を吐いていたと白状したってことになるわけで。
それでも、とても嬉しそうに微笑んで、僕の強がりを許してくれた。
今夜はもっと眠れそうだなって、わけもなく思えてきて。
まだ親離れできてなかったんだなって急に恥ずかしくもなった。
「相手のコには、会いたくない?」
この突然の問いに返事できなかったのは、そんな理由じゃない。
分からなかったから。会いたいのか会いたくないのか、まだ分からなかったから。
「…ん。分かった。病院には来ないように、母さんからお願いしておく」
沈黙を“会いたくない”という意思表示として受け取ったらしい。
母親がそう受け取ったのなら、この人がそう感じたのなら、僕は会いたくないと思っていたんだろう。
そう思うことにした。
いまだけは、母親に甘えることにした。
この足が動かせるようになるまでは。
この足で歩いていけるようになるまでは。
入院四日目。
朝、母親が来ていることにも気が付けないぐらいにぐっすり眠っていた。
母親はそんな僕を見て、もう大丈夫だ、と思ったらしい。
「母さん、帰るね」
どんな気持ちで「うん」と頷いたかは覚えていない。
「そうそう、口止めされてたけどね」
母親はそう言って悪戯っぽく笑った。
「お父さんがお見舞いに来ないのはね? 祐のあんな姿を見てしまうと、相手のコを許せなくなってしまうからなんだって。たとえ祐が許すって言っても、オレは許せないって」
“あんな姿”の内容について聞いたのはこのとき。
僕にはもう興味がないとばかり思っていた。
僕は父親を裏切ってしまったから。
両親は共働き。どっちもそれなりの役職に付いていて、会社が傾く、とまでは行かないけれど、辞められたら困る人が大勢いる。その“大勢”は、普通の人が考えるよりも、更にちょっとだけ多い。
週末も家族三人でいるときも、僕の目を盗むようにして仕事していた。両親ともそうだった。
仕事をしながらでも、僕のことを気に掛けていてくれたこともちゃんと知ってる。勿論、両親とも。
だから僕は、二人が安心して仕事に集中できるように、二人の視界からは決して逸れず、妨げにならないように端っこで遊んでいた。
おもちゃで遊んでいる振りをしながら、僕のことをちゃんと見ていてくれているか、そればかりを気にしてた。いつ仕事が終わるのか、そればかり気にしていた。
仕事が終わった瞬間に、バットと、ボールと、グローブを持って駆け寄ることができるように。本を読んでとおねだりができるように。
だから、大きいボール方が都合が良かったんだ。前に払う注意が少なくて済むから。ボールを取りこぼして、仕事の邪魔をしなくて済むから。ずっと後ろに意識を集中していられるから。
―― おとーさん。僕、弟が欲しい。そしたら二人で野球ができる。
―― おかーさん。僕、妹が欲しい。そしたらご本を読んであげる。
そのお願いは、聞き入れてもらえなかったけれど。
仕返しなんかじゃなかったんだ。“息子を野球選手にする”っていう夢があるのを知っていながらも、サッカーを始めてしまったのは。
母親がいなくなって、僕は一人になった。
物音のしない白い部屋に、僕は一人だった。
世界から音と色とが消えた部屋には、待ち望んでいない孤独があった。
だから僕は、夢を見る。
現実に起こってしまった悪夢を、もう一度見る。
ピーーー
ホイッスルが鳴る。
―― やった!
僕はフィールドに倒れ込んだ。
はぁはぁ。勝った。もう立てないや。足が無いみたいだ。よく最後まで動いてくれたよ。ありがとう、僕の両足。
あれ? 僕はボールを蹴ったっけ? ボールはどこに飛んでいったっけ?
チームのみんなが駆け寄ってくる。
ありがとう、やったよ、良いパスだったよ。
なんでそんな顔してるの? 僕たちは勝ったんだよ? なんで心配そうな顔してるの?
「祐、それ……」
「井上、お前、足が……」
僕は仲間の目線を追った。
その先にあった僕の左足は、見たこともない不思議な角度に……。
入院五日目。
悪夢。最悪の目覚め。
僕の入院は、足じゃなくて心の傷が原因なんだなって理解できた。
理解してしまえば開き直れる、なんてことはなくて。
まだ五日。
でも、いつまでもこのままじゃいけないってことは分かっていた。
僕の世界は音と色とを失ったまま。
白い病室は、あの瞬間から僕を先に進ませてくれない。
もう五日。
比較的余裕のある時期だった母親も、これ以上は無理できない。
面会時間が終わる午後八時。母親はそれから職場に向かっていたんだろうな。
さすがにもう、疲れを隠せてない。
歳だね、母さん。
「どうしてもダメなときは、思いっきり甘えるから」
母親に、もう来るな、と突き付けた。勿論、父親にも。
今の僕にできる一番の親孝行は、親の都合なんか考えずに甘えることなんだろうなって頭のどこかで理解してた。親離れできていない子供の振りをすることなんだろうなって。
でも、できなかった。
できるわけ…ないだろ……
入院六日目。
相変わらず悪夢を見る。
全く同じ夢。
カーテンの向こうが明るくなるまでじっと天井を見つめて、世界が白という色に染まる頃に目を閉じる。
夜は音の無い世界。
昼は色の無い世界。
こうして半分にすることで、負担が軽くなるんじゃないかって。そんなバカなことを実行してみたり。
学校の友人たちにも、お見舞いには来ないで欲しいと頼んだ。
だって僕たちは受験生なんだから。
最後まで、最後の最後まで、頑なに病室に来てくれたのは、大介だった。
「選手権大会、がんばれよ」
僕は行けないけど。
がんばって欲しいという気持ちは本当だった。本心だった。
妬みとかそういうものは少しもなかった。
大会に出たいっていう気持ちが、サッカーをしたいっていう気持ちが、ボールを蹴りたいっていう気持ちが、少しもなかったから。
「そんなこと…言うなよ」
目を赤く晴らして。
「お前も一緒に行くんだよ」
実現不可能なこと並べ立てる。
「代表選手になるんだろ、ワールドカップに出るんだろ」
熱い想いをぶつけられても、練習上がりに言い合った、半分が冗談でそれ以上に本気だった目標を突きつけられても、僕の心は、僕の足は、動かなかった。
大介は、気付いてしまったのかもしれない。
大介は、気付いてくれたのかもしれない。
僕には、サッカーを続ける気がないことに。
「そう…かよ。もういいよ」