セクエストゥラータ
ただ絶望するさえもできない、情けない男なんだ。
絶望しているくせに、ありもしない希望の光を求めて、起こりもしない奇跡を信じて、じっとしていることもできずに、何のアテもなくうろついているんだ。
見つけてくれよ。早く。
ふと気がつくと、てん、てん、とサッカーボールが跳ねていた。
僕の目の前に、サッカーボールが立ちはだかっていた。
人並みの隙間から突如として現れたそれは、新品ではないけれど、手入れが行き届いた大事に使われているものだと分かった。
周囲を見回しても、持ち主らしい人は見当たらない。
サッカーボールは、段々と跳ね上がる力を失いながら、僕に近づいてきた。
そして、図ったかのように僕の目の前で止まる。
事情を知らない人が見たら、僕のサッカーボールだと思うだろう。
その証拠に、通行人たちが一人二人と足を止めていき、僕の周囲に不自然な空間が作られている。
僕が何かをやるのだろうと勘違いしていることは、容易に想像がついた。
僕はサッカーが好きだ。
今も変わらずサッカーが好きだ。
これからもずっと、サッカーが好きだ。
サッカーが好きだから、ボールは二度と蹴らない。
代表監督まで務めた偉大なサッカー選手の娘と付き合っている男が、サッカーボールを蹴ることもできないなんてね。とんだ笑い種だ。
事情は複雑だけど、原田監督のところに挨拶に行くのかな。娘はやらんって言われるのかな。
サッカーで私に勝つことができたら娘をやろう、なんてね。
そうしたら、結婚できないや。
ボールを蹴れないんじゃ、勝負ならない。
「こま……ったな」
サッカーボールに手を伸ばす。
奈津美の頬に手を添えるときのように、優しく、愛しく。
何がそうさせたのかは、僕自身も分からない。
次の瞬間には、胸の前で抱えていたサッカーボールを、頭より高く放り上げて。
僕はボールを蹴った。
三年振りの感触は、やっぱり最高だった。
* * *
てん、てん、とサッカーボールが跳ねる。
僕に向けられている観衆の声は、賞賛ではなく応援だった。
僕は、スタジアムを目の前にした路上で、誰の物かも分からないサッカーボールを使い、三年というありえないブランクを抱えたリフティングを披露していた。
最初は、指折り数えられる程度。
次は、両手で足りないぐらい。
三回目は五十八。
ここで、ただのリフティングだと分かった見物人は、ご丁寧にも侮蔑に近い眼差しを向けてから離れていった。
それからは百回を目指している。
相変わらず何事かと覗いていく人はいるけれど、やっているのは何の変哲もないただのリフティングで、芸と呼べるようなことはしていない。
「UNO、DUE、TRE、QUATTRO、……NOVE、DIECI」
十回を数える。
僕は、ボールを蹴る喜びに震えていた。
周囲を取り巻く人の動きが、完全に把握できる。
三年振りのボールはじゃじゃ馬だったけれど、すぐに感覚を取り戻した。
右足、左足、右太腿、左太腿、右足、左足、ここで高く蹴って、頭で連続四回。
お祭り直前の雰囲気は、盛り上がった者勝ちの様相だった。
「なん…で……」
小さな、小さな呟きが、僕の耳に届いた。
僕がその声を聞き間違えるはずはない。聞き逃すわけがない。
今度は即座に断言できる。喜怒哀楽のどれか一つを選べと言われたら、何の躊躇いもなく喜を選ぶ。
リフティングを維持しながら身体の向きを変えて、目標を正面に捕らえる。
目の前には人集り。幾重にも敷かれた人の壁。
僕は、脛と足の甲とで挟んだボールを、優しく柔らかく放り投げた。
僕を囲んでいた全員が、ボールの行く先を目で追っている。
「道を、空けてもらえますか」
さざ波のように、人の壁が開かれていく。
僕が蹴ったボールをその胸に抱えた一人の日本人女性。
六月の太陽を受けた黒髪が風に靡いて、キラキラと眩しかった。
「ボールを」
僕は決して近寄ることせず、ボールを投げ返してと催促した。
帰ってきたボールを胸で受け、そのままリフティングを再開する。
そこからの百回は、本当にあっという間だった。
僕がボールを小脇に抱えると、僕を取り囲んでいた観衆は、あぁなるほど待ち合わせまでの時間つぶしだったのか、と勝手に納得して通行人へと戻っていった。
僕と、そして彼女だけが、その場で足を止めたままだった。
僕と彼女との間を、通行人は遠慮なしに通り過ぎている。
潤んだ瞳が、何があったの、と問い掛けてくる。
僕は笑ってみせた。サッカーボールを顔の横に持ち上げて。
サッカーがね、好きなんだよ。
もとから、嫌いになんかなれるわけなかったんだ。
奈津美は、復讐しようとしていたのかもしれない。
母を捨てた父親に。
彼に傷付けられた人たちに代わって、復讐しようとしていたのかもしれない。
でもそれだけじゃない。
僕のせいだった。
僕のためだった。
だから、脅迫状を送ったパオロが、もうやめよう、と言っても聞き入れなかったんだ。
パオロも、カルロさんも、僕なら奈津美を止められるって、僕しか奈津美を止められないんだって、そう信じて話してくれた。
奈津美は、苦しんでいたんだ。
サッカーから逃げ続けていた僕と、日本のサッカーを支える父親との間に挟まれて。
積もりに積もった行き場のない感情が、何かの拍子に抑えを失って。
雪山の雪崩のように、ただ知らなかっただけの父親に向かって。
自分が間違っていることが分かっていて、それでも止められなくて。
だから、誰も巻き込むわけにはいかなくて。
それでも、それでも止めて欲しくて、気付いて欲しくて。
気付けなかったのは、僕の過ちだ。
他の誰でもない、一番近くにいた僕の過ちだ。
僕が一歩踏み出すと、彼女も同じように一歩踏み出した。
今度は彼女が一歩踏み出したから、僕は慌てて一歩踏み出した。
一歩、また一歩。
手を伸ばせば届く距離。
決して手を伸ばしたりはせず、身体が触れ合うまで、吐息を感じられる距離になるまで、互いに歩み寄る。
そして僕たちは……唇を重ねた。