セクエストゥラータ
怪しいとか、疑うとか、そういうことは少しも頭に浮かばなかった。
そればかりか、一つの確信があった。予感、希望、とにかく何か正体不明の感覚であったけれど、確かな未来が見えていた。
通話ボタンを押す。
ワンコール、ツーコール。
心臓が高鳴る。
スリーコールの半ばで電話が繋がる。
僕は息を呑む。
「よぅ! どうしたぃ?」
陽気なイタリア語が耳に届く。
「井上祐です」
僕はイタリア語で自分の名前を名乗った。
堂々と名乗れたと思う。卑屈でも高慢でもなかったと思う。
「……こいつは弟の電話だったと思ったが?」
「借りたんですよ、カルロさん」
電話の相手は、パオロの兄、カルロ・バルディーニだった。
パオロが事件に深く関与しているとなれば、その動機は姉テオドラ・バルディーニの死に関係する二十三年前の事件で間違いない。
テオドラは、パオロの姉であると同時にカルロの妹でもある。となれば、兄カルロとの出会いは偶然でも何でもない。そう考えることには、何の躊躇いも必要ない。
「そうかい。丁度話したいことがあったんだ」
「聞かせてください」
「あぁ、一言で終わるよ」
そうして、カルロの口から、衝撃の、けれど予想通りの言葉が流れ出た。
―― 河合奈津美は、俺の家にいる
* * *
試合の会場となるレナトダッラーラ・スタジアム周辺では、早くも応援合戦が繰り広げられていた。まだ昼だというのに、なんて野暮なことは思わない。勝敗が分かれる試合ではあるけれど、これはお祭りなのだから。
勿論、真剣勝負だ。けれど、いがみ合うことはない。試合の前も、試合の後も。スポーツとはそういうものだ。
『サムライ・ブルー』『アズーリ』という愛称から分かるように、日本とイタリアは共に青をチームカラーとして採用している。きっとスタジアムは青一色に染まるのだろう。
同じ青だから仲間意識を持つのか、同じ青だから対抗意識を持つのか。それとも、同じ青ではない、として敵愾心を抱くのだろうか。
とにかく、いい試合になればいい。
僕はそう思う。
スタジアムに近づくにつれて、周辺の日本人比率が高くなっていった。
聞き慣れた言葉と見慣れた顔立ちには、懐かしささえも感じる。無意識のうちに引き寄せられてしまったのだろう。この言いようのない気持ちを紛らわせるために。
沈みかけた気持ちを奮い起こして、短く息を吐き、正面をぐっと見据えた。
視界の先の先まで人の列が続いていた。どうやらこの先には、日本チームのサポーター席への入場口があるらしい。
日本人の列を横目に、僕は歩を早める。
僕はもう動き出した。
走り出したストライカーは、決して止まらない。
失敗を恐れて後手を踏むなんて、ストライカーのやることじゃない。
僕はもう止まってはいけない。
奈津美を助けることにおいて僕以上に強力な存在なんて、世界中探したって見つかりっこない。
僕は奈津美を助ける。必ず。
カルロ・バルディーニは、僕に言った。
奈津実はスタジアムに向かう。
何度も止めたが、ついに止められなかったことを謝っていた。
奈津美は、脅迫してきた本当の犯人に、本当に誘拐されようと考えていた。他の誰でもない、自分の意思で、だ。
―― 貴方たちを共犯にしたくなかったの
ホテルのロビーで奈津美が言った“貴方たち”とは、僕や由佳のことなんかじゃない。
この狂言誘拐に関わったすべての人、原田監督、黒木先輩、パオロ、愛花さん、とにかく全員のことを言っていたんだ。
奈津美は、父親が愛したテオドラ・バルディーニのために、自分自身を誘拐しようと考えた。狂言誘拐も立派な犯罪。奈津美は、全部一人で引き受けて、二十三年前に起きた事件の首謀者を暴くために、その身を犠牲にしようとしていたんだ。
けれど、ここイタリアで状況が大きく変わってしまった。好転したのかどうかは、奈津美にしか分からない。
二十三年前の事件では、脅迫状を出したのはカルロ・バルディーニだった。勿論、カルロには脅迫状の内容を実行するつもりなんかなかった。女癖の悪い日本人から妹を守ろうとしたのだろう。効果があるなんて思っていなかった。ただ、何かをせずにはいられなかったんだ。その気持ち、よく分かる。
しかし、実行されるはずのない犯行が行われ、カルロは混乱した。
そして、すぐに気が付いた。カルロ以外に脅迫状の内容を知っているのは、ただ一人だけだということに。
脅迫状の内容を知ることができるのは、脅迫状を出した人間と、脅迫状を受け取った人間、即ち、カルロと原田良太だ。
だけど、証拠は何もない上に、脅迫状を送ったのは自分であるという負い目もあって、カルロには口をつぐむ以外の選択肢がなかった。
パオロは何かの拍子に脅迫状の送り主が兄カルロであったことを知った。恐らく、カルロが捨てられなかった脅迫状の下書きを見つけたのだろう。
カルロが捨てていなかったのは、パオロに見つけて欲しかったからなんだと思う。
何となく、そう思う。
そうしてパオロは、二十三年前に行われた襲撃の黒幕が原田良太であると考えるようになった。ただ、墓参りに来た原田良太と対面して話したことで、その考えを改めている。
これは、パオロ本人から聞いたことだ。
今回の脅迫状を送ったのは、パオロだった。二十三年前に使われたものに似せた脅迫状は、文面ではなく“脅迫状そのもの”が『お前が犯人だと知っているぞ』という意味を持つことになる。
カルロから事情を聞かされた奈津美は、狂言誘拐を計画・実行し“脅迫状の文面”をパオロに伝えた。
それは『お前が犯人だと知っているぞ』というメッセージになった。
奈津美の計画では、犯人役は黒木先輩が務め、メッセージを伝えるのは僕の役目となっていた。それならば、もし狂言誘拐が発覚してしまっても、僕が罪に問われることはない。
奈津美は、僕だけは巻き込まないように、と考えたのだろう。
パオロはその動きに気付いていた。けれど、原田良太には伝えていないと言っていた。
その結果、奈津美自身が計画した狂言誘拐の犯人役である黒木先輩は、原田監督から誘拐犯だと思われてしまっている。
結局、パオロも、黒木先輩も、奈津美を誘拐しようだなんて少しも思っていなかったってことだ。
奈津美を誘拐しようと思っているのは、奈津美本人だけだ。
奈津美がそんなことをやろうとしているのは、二十三年前の事件に父親である原田監督が関わっているんじゃないかという疑念を捨て切れていないから。
今回のことで、二十三年前の事件が再び注目されれば、真相を明らかにできるかもしれない。少なくとも、意識して触れないようにしている現状に比べたら、遥かに前進したと言えるんじゃないか。
それは、テオドラの弔いになるかもしれない。
パオロや、カルロさんの無念を和らげるかもしれない。
原田監督の、奈津美のお父さんの罪悪感を拭うことができるかもしれない。
でも、でもさ?
僕はね、奈津美を失いたくないんだよ。
ただ、それだけなんだよ。
僕はね、奈津美がいないと何もできない駄目な男なんだ。