セクエストゥラータ
●第八章 嫌いになんかなれるわけなかったんだ
六月二十八日の朝。
午前七時に目が覚めた。本当にそれだけの、何もない朝だった。
関口さんと秋野さんの二人は、昨夜のうちにミラノのホテルへと移っている。今日の便で日本に帰るのだそうだ。確かに、予約なしで乗るのなら、今日の昼間が狙い目だ。
今夜は、世界中の誰もが認める世界一決定戦が行われる。W杯決勝トーナメント二回戦。日本とイタリアとの試合。そんな日にイタリアから日本へと向かう人、向かわねばならない人は、ご愁傷様としか言いようが無い。世の中、サッカーに興味がある人ばかりではないのだけれど。
僕だってそう。
イタリアの、それも試合のあるボローニャにいながらも、試合とは違うものの結果を気にしなければならないのだから。
あれから、僕はホテルを一歩も出ていない。
それは、奈津美に言われたからってわけじゃない。どこにも行く当てがなかっただけのことだ。関口さんと秋野さんの二人に、通訳としてボローニャ観光の同行を求められたけれど、とてもそんな気分にはなれなかった。
食事もすべてホテル内で済ませた。宿泊費は前払いされていて、ルームサービス等の雑費は後日請求書を送ることになっているのだそうだ。
チェックアウトの予定は明日。請求先には黒木信輝の名前が記されていたが、宿泊者の名前は井上祐、僕になっていた。予約した段階、僕をここに誘導する計画だったということが分かる。
ただし、その計画には一つだけ計算違いがある。
僕は、一年以上もの間、片思いを続けられる男だ。それも、一言も言葉を交わせない状態での一年だ。
僕は、諦めが悪い。
僕は、未練たらしい。
何もしないことと、何もできないこととは、大きく違う。
僕は何もできない? そんなわけない。
朝食を済ませてシャワーを浴びた僕は、必要な荷物をまとめて部屋を出た。
フロントに鍵を預けるときに目にした時計は、午前九時五十七分を指していた。あの朝も同じ時間だったな、と少しだけ感傷に浸った。
ホテルを出ると、正面の通りに見覚えのある車が止まっていた。
僕は、無言のまま助手席に乗り込んだ。
「ciao.」
運転席に座るパオロは、そう言って陽気に右手を上げた。
この場合の和訳は、『よぅ!』が相応しいだろう。
「スタジアムへ向かうにしては、早過ぎやしないか?」
「早い時間から動いた方が、いろいろと都合がいいだろうと思ってね」
「そいつは気が利いてる」
「怪我は大丈夫?」
僕はパオロの視線を横顔に感じながら、敢えて正面を見据えたまま言った。
「ちょいとばかり派手に出血したが、もともと大した怪我じゃない」
「どうしてここに?」
「会ってもらいたい男がいる」
わざわざ男と限定したのは、僕に変な期待を抱かせないためだろう。
返事代わりにシートベルトを締めると、パオロも無言のままキーを回し、車を発進させた。
午前十時、赤レンガの街並みはまだいつもと変わりない。
車は、スタジアムでもキャンプ地でもない郊外へと向かっていた。
「何も訊かないんだな」
車の中に会話はなく、僕は流れ行く景色をただ眺めていた。
パオロが何を考えて何をしようとしていても、それは僕には関係のないことだ。黒木先輩も、由佳だって同じだ。勿論、平気なわけじゃない。
僕は無力な一般人。すべての人の事情を把握してその問題を解決する、なんてことはできない。僕自身が抱える悩みや問題だって、僕一人では解決できやしないんだ。
だからこれは、優先順位の問題なんだ。
ただ一つの譲れないもの。そのためには、何だって踏み台にして利用してやる。みんなだって僕を利用していたんだ。
車が止まったのは、郊外にある共同墓地だった。
「降りる前に。まだ持っているなら、出せ」
パオロが差し出した手に、黒木先輩から受け取った拳銃を置いた。
ホテルの置いておくわけにもいかず、かといって堂々と持ち歩けるものでもない。正直なところ、どうやって処分しようかと悩んでいたところだ。
拳銃を受け取ったパオロは、安全装置と弾装を確認してダッシュボードに放り込んだ。
「そういえばあの夜、黒木先輩を撃たなかった?」
「いいや、俺は一発も発砲してないぞ。撃たれていたのか?」
「血を流していたんだけど、血のりだったんだろうね」
「ユウにオレを撃たせる気だったのか」
「もしそうだったとしても、誰も怪我してないんなら、その方が僕は嬉しい」
何か言いたげなパオロを置き去りにして、僕は車から降りた。
墓地は静寂に包まれていて、特有の匂いが漂っていた。日本もイタリアも同じなんだと思った。
「こっちだ」
パオロの先導に従って歩く。
墓地には人影がなく、それまで気にも留めなかったそよ風が、やけにはっきりと認識できた。心なしか、肌寒い。
無言のまましばらく歩いたあと、パオロは前触れなく立ち止まった。
パオロの視線の先には、『Teodora Baldini』の文字が刻まれた墓標があった。
「オレの姉だ」
僕はなんと答えて良いのか分からず、間を持たせるために手を合わせて拝もうとしたけれど、作法云々以前に、そんな気持ちであることが失礼だと気付いて、結局そのまま立ち尽くしてしまった。
「安心しろ。会ってもらいたかったのはオレの姉じゃない」
そうだろうな、と思う。男じゃないし、既に死んでいる。
何より、パオロの姉テオドラ・バルディーニの墓標に刻まれた、二十三年前を示す西暦が、その人物の正体を物語っている。
数分後、背後から近づく人の気配を感じ、僕は身を堅くした。
「待たせてしまったね」
耳に届いたのは、低くて渋い男の声だった。それも、日本語の。
「貴方も、ご存知だったんですね」
「言い逃れはしないが、非礼は詫びよう」
「不要です。許すつもりはありませんから」
「正直にそう言ってもらえるのはありがたい」
「貴方には、そんな無駄話をする時間はないはずでしょう? 原田監督」
振り向いた瞬間に、原田監督と目が合った。
原田監督は、悲しい目をしていた。
そして、とても寂しい目をしていた。
* * *
「キミたちをイタリアへ呼んだのは、この私なんだ」
キミたち、に含まれているのは、僕と奈津美、由佳、そして黒木先輩の四人。
黒木先輩に四人分の観戦チケットを渡したのは、原田監督だったわけだ。確かに、原田監督ならば四人分の観戦チケットを用意できるし、ボローニャで僕が滞在していたホテルの宿泊費を工面することも容易いことだ。
「私は脅迫されていたんだ」
要求の内容は聞くまでもない。
「さもなくば――」
そこで言葉を切った原田監督は、一枚の写真を取り出して僕に渡した。
その写真には、奈津美の姿が写っていた。写り込んでいる背景にも見覚えがあった。おそらくは、大学の構内で隠し撮りされたものだろう。
「彼女の母親とはただ一度だけの関係だったが、彼女は間違いなく私の子供だ。相性が良かったのだろうな」
二十三年前、奈津美の母である河合亜希穂は、上司と不倫していたのだそうだ。上司から関係の清算を求められ、その悲しみを埋めるために、原田監督を求めたのだそうだ。