セクエストゥラータ
●Intermezzo(『ヴェンデッタ』)
二〇XX年六月某日。
日本代表チームが現地イタリアへと到着したその日、俺はキャンプを抜け出して古巣であるボローニャへと向かった。
目的は古い知人の墓参りだ。
墓地に着いた俺は、墓前に花を供え、黙祷を捧げた。この国における正しい作法は分からなかったが、手ぶらで訪れることなどできなかったのだ。
墓標には、二十三年前を示す西暦と、『Teodora Baldini』の文字が刻まれている。
「遅くなってしまった」
そのあとに続けるべき言葉を見つけられず、俺はもう一度目を閉じる。
再会を懐かしむ言葉、許しを請う言葉、いずれも相応しくないことは分かっているし、そもそも俺は、そんなことを言うためにここまで来たわけではない。
参拝者の気配を感じ、胸ポケットからサングラスを取り出す。
俺の素性に気付かれると、いろいろと厄介なことになる。俺自身はいい。だが、彼女の眠りが妨げられてしまうことだけは、なんとしても避けたい。
通り過ぎるのを待っていると、足音が俺の真後ろで止まった。
「失礼ですが、姉とはどんなご関係で?」
“姉”という言葉が、身体の、心の芯に響いた。
この瞬間に、俺は続けるべき言葉を見つけた。
―― 感謝する。この導きに。
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ヴェンデッタ(復讐)
【原田 良太】
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二十年と少し前、俺はイタリアのチームに所属していた。
あの頃の俺は自身の才能に自惚れていて、すべての誘惑に応じるのが務めだと本気で思っていた。
言い寄ってきた女どもは、金目当てか売名目的かのどちらかだった。早ければ翌日に、遅くとも翌週までには、写真付きで記事にされていた。
いいさ、利用すればいい。金ならくれてやる。どうせ一夜限りの関係だ。大した額にはならない。宣伝、露出、好きにやればいい。どうせ一時限りの流行だ。実力がなければ生き残れはしない。せいぜい出世してくれよ。そうでなければ、俺の選定眼が疑われる。
そんな風に考えていた。
俺は、サッカーに愛されていた。
ボールを呼び込む力があった。
開始の合図が鳴り響けば、そこは俺の世界。
観衆は皆、俺に魅了された。ある者は狂喜乱舞し、ある者は言葉を失い、ある者は頭を垂れた。
最高の形で受けられる状況と体勢を整え、正確なキックでゴールへと蹴り込む。脚力と技術、それを維持する体力があってこそのものだ。
当時の俺は、無駄な消耗を抑えるために学んだ戦術が代表監督という役柄に繋がるなど考えもしていなかった。
ただ、すべてが思い通りになる、と考えていた。
それだけだった。
最初のシーズンが終わり、地元ファンとの交流イベントが開催された。
そこで俺は、一人の日本人女性と出会った。その女性の名は河合亜希穂。
彼女は俺を知らなかった。サッカーに興味は無いのだそうだ。
ただ日本人だというだけでイベントに駆り出され、下っ端である彼女に拒否権などあるはずもなく。しかし、彼女が駆り出された理由が、日本人だから、というだけではないことは、すぐに分かった。
彼女、河合亜希穂は美しかった。
スポンサー企業が俺に気を遣ったつもりなのだろう。
それは日本人女性だけが持つ美しさ。俺にはそれ以上の説明はできない。
とっくに見慣れたと思っていたボローニャの街並みが、河合亜希穂ただ一人の存在によって、異国情緒溢れる街並みへと変貌したのだ。
彼女の印象は、他の誰よりも強く残った。
そんな河合亜希穂の残像に引き摺られていた頃だ。俺がテオドラ・バルディーニと出会ったのは。
テオドラは、その容姿もさることながら、内面がとても美しい女性だった。当時の俺でさえも、穢してはならないのではないか、と萎縮してしまうほどだった。
彼女が向ける視線には、掛け値なしの愛が込められていたが、俺はその想いを受け入れることができなかった。
彼女と出会ったあとの俺は、言い寄ってきた女にも手を出さなくなった。目的が売名であれば、ホテルのディナーだけで充分だ。身体を重ねる必要はない。
手を出さない俺に、プライドを傷つけられた女性がいたのだろう。ほんの一時期、俺が不能であるという噂が流れたこともあった。
これだけは言える。俺はテオドラに惚れていた。
数々の女たちを、出会った数時間後には裸にしてきたこの俺が、一年という時間を費やしたなど、それ以前の俺を知る者にはとても信じられない話だっただろう。
彼女は、宝石やドレスよりも、家族や友人と分け合えるような、庶民的で実用的な贈り物を喜んだ。だから俺は、彼女の家族のために観戦チケットを贈ることにした。
そうして、そのチケットを手渡した際に伝えられたのだ。
―― 子を授かったかもしれません
* * *
彼の名はパオロ・バルディーニ。俺の恋人だったテオドラ・バルディーニの弟。
俺の素性とテオドラとの経緯を聞いても、彼は冷静だった。
俺は、散々罵られたあとに顔の形が変わるまで殴られる覚悟をしていたというのに。
「テオは妊娠していたのかな?」
彼は無言で頷いた。
姉の墓標を見つめる彼の心情など、察するべくもない。
そしてそれは、俺も同じことだ。
「……俺の子だ」
テオドラの口から、妊娠した、と聞いたわけではない。ただ、彼女が妊娠していたのであれば、それは俺の子に間違いない。
「男の子かな? 女の子かな? 男だったら、イタリアで育ててサッカー選手にする。俺の子だ。必ずA代表クラスの選手になる。女だったら、日本で育てる。イタリアの男たちは手が早いからな。そうだ、名前はどうする? イタリア風か? 日本風か? いやまだ気が早すぎるな」
二十三年が過ぎ、俺は別の女性と結婚し、子も生まれている。
これは裏切りかもしれない。俺はそう思った。
「憎んでいるだろう?」
「肉親を三人も失ったんだ。憎しみは消えない。だが、憎しみの対象はアンタじゃない。当時はまだガキだった。テオの妊娠を知ったアンタがやったことだと思い込んでいたが、刑事になって分かった。アンタみたいな有名人は、チンピラに脅されるネタを作る方が危険だってな。それに……」
「それに?」
「アンタはテオの妊娠を知らなかった」
「振りかも知れん」
「職業柄、嘘を見抜くのは得意なんだ」
「……妊娠したかもしれない、とは告げられていたよ」
「もう言わないでくれ。……家を襲撃した連中は全員檻の中にいる。別の事件で、だが」
「首謀者は?」
「誰も口を割りやしない。ただの有名人ではないことだけは確かだ。それともう一つ、目の前にいる男でもない」
そう口にした彼は、初めて表情を緩めた。
「肝心なときに支えてやれなかった。俺自身を許せないでいる」
「罪を感じているのなら、アキホの娘を大事にしてやってほしい。応援に来るそうじゃないか」
唐突に湧いて出た河合亜希穂の名前に、俺は動揺を隠せなかった。
「奈津美を知っているのか?」
「テオとアキホは友人だったんだ。手紙が来た。試合前日に食事の約束もしている」
そうして、俺の頭に一つの閃きが生まれた。
「俺の娘を誘拐してくれないか」
* * *