セクエストゥラータ
パオロが階段を駆け降りる足音が聞こえなくなった。一階に到達し、建物の外に出たのだろう。パオロを追うのなら、今がギリギリだ。けれど、僕は由佳の安否を確認せずにここを離れることはできなかった。
急いで奥の部屋に駆け込むと、そこにあるべきはずの由佳の姿はどこにも見当たらなかった。機転を利かせてトイレやクローゼットに隠れたのかとも思ったけれど、そこにも由佳の姿は無かった。
玄関から出ていったパオロは、間違いなく一人だった。パオロが由佳を連れ去ったわけじゃない。
なら、由佳はどこへ消えた?
もう一度部屋を見渡す。
非常階段に繋がる窓が完全に開け放たれていて、容易に出入りが可能になっていた。
激しく混乱してしまった僕は、非常階段を使って五階で倒れている黒木先輩のところへと戻ることにした。
ところが、その黒木先輩の姿までもが消え失せていた。
内側から割られた窓ガラスが散乱した非常階段は、間違いなく五階であることを示している。
窓を開けて中に入る。
黒木先輩が倒れていた場所は、まだほのかに熱を持っていた。べっとりと張り付いた血が平静を奪い、僕の混乱はますます深まって行った。
あの傷で歩いたのか? そう思って玄関に回る。しかし、玄関までの道にも、玄関の外にも、最初に辿ってきたもの以外の血の痕が見当たらない。あれだけの出血なら、絶対に血の痕が増えているはずだ。
五階の部屋を隅々まで調べた。クローゼットも、バスルームも、人間が隠れられそうなところは全部。
夢の中にいるような気分のまま、再び三階の部屋を調べた。
入口すぐのダイニングキッチンは、二人が揉み合ったときのままの物が散乱した状態だった。
奥の部屋のベッドには、僕が片膝をついたときの皺が残っていた。当然、ベッドの下も調べた。由佳を椅子に縛りつけていたロープの類も、この部屋のどこにも見当たらない。
その後、僕は一時間ほどその場に留まっていた。警察も救急車も来なかった。待っている間、愛花さんに二回電話を掛けたけれど、どちらも繋がりはしなかった。繰り返される呼び出し音が、虚しく耳に残った。
由佳が無事だったこと。由佳も無関係ではなかったこと。黒木先輩とパオロは完全に敵対していること。
ここに来て得られたのは、その三つ。
しかし、パオロは何処かへと走り去り、由佳と黒木先輩は忽然と姿を消してしまっている。決して事態が好転したとは言えない。
愛花さんと連絡が取れないこともそうだ。
利用されても構わないとは思っていたけれど、いきなり利用されてしまったのかもしれない。
右手の中で黒光りしている拳銃が、少しずつ僕の熱で温まっていくのが感じられて、とても嫌だった。
用心のために非常階段を使ってアパートを離れた。
ある程度の距離を取ってから、一度だけ振り返る。
黒木先輩の怪我は大丈夫なのだろうか。あの出血で動けば、命に関わってしまうんじゃないだろうか。
アパートに背を向け、赤レンガの街並みを当ても無く歩き出した。
どうかあの傷だけは嘘であって欲しい、と願わずにはいられなかった。
* * *
午後十一時を回り、もうすぐ日付も変わろうという時間になっていた。結局、僕はホテルへと戻ってきた。
あんなことになった以上、パオロも僕とは顔を合わせ難いはずだ。ホテルにいれば、奈津美や黒木先輩から何らかのメッセージが送られてくるかもしれない。
ホテルに戻る理由として、僕は何度も自分にそう言い聞かせていたけれど、本当の理由は一人でいる恐怖に負けてしまいそうだったからだ。
ホテルに戻れば、関口さんと秋野さんがいる。
誰でも良いから、声を聞きたかった。
カードキーを挿してドアを開けると、部屋の明かりが灯されていた。
憔悴しきっていた僕は、たったそれだけのことが嬉しかった。
自然と笑みがこぼれる。
「あ、帰ってきたんだ」
声が聞こえた瞬間に、声の主に視線を向ける。
寝室からひょっこりと顔を出した関口さんは、僕が勢いよく視線を向けたので、少し驚いたようだ。
「二人とも帰ってこないから、なんだか不安になっちゃってね」
どうやら、パオロは帰ってきていないらしい。あんなことがあった以上、僕の前には姿を現せないだろう。
「寝てて良かったのに」
「ベッドを二つとも占領しちゃうのは、さすがに悪いかなと思って」
奥の寝室は、既に明かりが消されていた。秋野さんはもう眠っているようだ。
「パオロは帰ってこないだろうから、二つとも使っていいですよ」
「なんで?」
「急用だとか」
「ふーん」
「おやすみなさい」
「ねぇ、これからちょっと付き合ってよ。いいでしょ?」
関口さんは、僕の返事を待たずに寝室の奥へと姿を消した。どうやら拒否させる気はないらしい。
それでも僕は、一応の抵抗を試みる。
「こんな夜中に?」
「お酒を飲まないと、寝付けないの」
「なるほど」
服を着替える布擦れの音が聞こえてきて、妙に恥ずかしくなった。
「言葉が通じないから、注文できないしね」
「あ、そうですね」
成り行きに任せて相槌を打つ。
「なぁに? 相手が私じゃ不満?」
そう言って、関口さんはまたひょっこりと顔を出してきた。その拍子にブラジャーの肩紐が見えて、僕は慌てて目を逸らした。
「そ、そういうわけじゃ」
「だったら決まりね」
断るのは無理だと悟った。
「シャワーだけ浴びさせてください。たくさん汗を掻いたので」
「いいわよ。その間にお化粧しておくから」
なんだか、反則技で丸め込まれた気がする。
ホテルにはカウンターバーがあり、昼はバールとしてエスプレッソを提供し、夜にはアルコールがそのメニューに加わるらしい。
店に入ると、関口さんは躊躇なくカウンター席に座った。そして、メニューに目を通すことなく口を開く。
「じゃあ、ベリーニを二つ注文して」
「二つも飲むんですか?」
「何言ってるの、キミの分よ」
「僕はアルコールは――」
断ろうとする僕の言葉は、あっさりと関口さんの声に掻き消された。
「一杯ぐらい付き合いなさいよ」
「酔い潰れでもしたら、通訳になりませんよ」
「そうなったら、同じものを頼み続けるわ」
「でもですね」
食い下がる僕に向き直ることもせず、正面を向いたままの関口さんは、ほん少しだけ視線を落とした。
「今夜の出来事は、忘れてしまいなさい」
その凛とした響きに、僕は言葉を失った。
「何があったのかまでは分からないけれど、とても辛いことがあったのは分かる。お酒は逃避じゃない。明日を戦う活力を与えてくれる。今は、明日を戦うための休息なの」
BARカウンターでは、隣り合う相手の顔を見ることなく正面を向いたまま話すものだ、と聞いたことがある。その理由までは覚えていないけれど、きっと心に染み入る理由なんだろうなと思った。
それだけ僕が追い詰められた顔をしていたということなのだろう。
「じゃあ、ベリーニで乾杯、ね」
関口さんは、僕の沈黙を納得として受け取ったようだ。
僕は手を上げてバーテンダーを呼び、言われるままに注文した。