セクエストゥラータ
僕は、飛び出した二人のどちらかが戻ってくるのを待つか、二人を追って街に出るか、という二つの選択肢から後者を選び、由佳をここに残して部屋を出ることに決めた。
「どこに行くの?」
無言で振り向いた僕を、由佳はトーンの低い声で制止する。
「分からない」
どこに行けば良いかなんて、本当に分からなかった。街路に出たところで、二人の後を追うのは不可能だろう。
けれど、これ以上ここに留まることはできない。
「奈津美のところに行くのね?」
「分からない」
「行かないで」
僕は答えなかった。答えられなかったのではなく、答えなかったんだ。それは卑怯な男の行動だったかもしれないけれど。
「行かないで」と、繰り返される由佳の声。
僕は構わずに歩を進めた。
「行くなって、言ってるでしょ!」
由佳の怒鳴り声が響く。本気の殺気が込められた、悲痛の叫びだ。
異常を感じて振り向いた僕の目には、由佳の手に構えられた一丁の拳銃が放つ、黒い光沢が飛び込んできた。
* * *
血走った目。
広がりきった瞳孔。
ゆっくりと大きく上下する肩。
歪んで攣り上がった口端。
喉の奥から断続的に漏れ出る笑い声。
そこには、僕が知っている由佳はいなかった。
「由佳」
僕が呼び掛けると、焦点の合わない目が僕を探して宙を彷徨った。
「大丈夫よ。安全装置は解除してあるわ。あとは引き鉄を引くだけで、指にちょっと力を入れるだけで発射できるわ。大丈夫よ。これは三八口径って言って、女のあたしが撃っても肩が外れたりしないのよ。大丈夫」
「……由佳」
「二人で日本に帰りましょう? いいじゃない、放っておけばいいじゃない、勝手にやらせておけばいいじゃない、自己満足の不幸自慢なんて」
「……由佳」
「父親がいないからナニ? お姉さんが捨てられたからナニ? 傍にいるのに見てもらえないあたしの方が、もっとずっと不幸よ!」
「由佳!!」
僕が怒鳴ると、由佳は身体をびくつかせて小さく縮こまった。
「言って良いことと、悪いことがある」
「……ゴメンナサイ」
「さ、それを渡すんだ」
「イヤよ! だってこれを渡したら、アンタは奈津美のところに行っちゃうんでしょ?」
由佳は再び銃口を僕に向ける。
僕の行動は、知らず知らずのうちに由佳をここまで追い詰めてしまっていたんだ。その責任を取るときが訪れたんだ。責任を取れる瞬間に巡りあえたんだ。
僕は、今、男として、幼馴染みとして、親友として、由佳に対して何ができるのだろうと考えた。
「由佳、撃っていいよ」
「えっ?」
「どこを撃たれても、僕は行く。みんなで日本に帰るために、僕は這ってでも行くよ」
僕は由佳に一歩近づいた。
由佳は僕が近づいた分だけ後退して、べットの端から中央に移った。
もう一歩、更に一歩。由佳は僕が近づくにつれて、イヤ、イヤよ、と呟きながら頭を振った。
僕は歩みを止めることなく近づき続け、遂に由佳の構えた銃口が胸に密着するまでに近づいた。銃口の先にあるのは、僕の心臓だ。
「あ……」
呻くような声と、涙でぐしゃぐしゃになった顔で僕を見上げる由佳。
由佳の腕は、重力に抗う力を失って、ストン、と落ちた。
「僕が部屋を出たら、鍵を掛けて。僕が戻るまでここにいるんだ」
「うん」
腕を伸ばして由佳の頬を一度だけ撫で、それからのろのろと立ち上がった由佳と並んで、玄関までゆっくり歩いた。
「ユウ……」
「あとで聞くよ、必ず」
扉を閉めると、カチャリ、という金属音が聞こえた。
二人を追うために、僕は頬を叩いて気合を入れ直す。
かなりの時間が経っている。飛び出していった二人の後を追うには、どう考えても無理がある。
ふと、足元のタイルに血が付着していることに気が付いた。恐らくパオロのものだろう。
これを辿れば――
血の痕は、階下ではなく上階に向かって続いていた。屋上に逃げてもそれ以上の逃げ場はないはずだった。それに、ボローニャの赤レンガの建物は、ほとんどが三角屋根で“屋上”という場所そのものが存在しない。
不審に思いながら、血の痕を追って階段を昇る。
五階に辿り着いたとき、目の前の扉の向こう側から、ガォン、という何かが爆発したような大きな音が聞こえた。それが銃声であることに思い至り、慌てて目の前の扉を開けた。
室内は三階の部屋と同じ間取りで、玄関を開けてすぐにタイル張りのダイニングキッチンがあり、奥に続く短い廊下の向こうに寝室があるという造りだった。
さっきと同じ轍を踏まないように、扉の影に誰も潜んでいないことを確認してから部屋に足を踏み入れる。
整然とした室内には、争った形跡はない。
慎重に奥の部屋へ進むと、上半身を壁に預けるようにして倒れている黒木先輩を見つけた。
咄嗟に駆け出そうとして踏み留まり、他に誰もいないことを確認する。部屋はさほど荒れていないけれど、奥の窓ガラスが割れていた。
黒木先輩に駆け寄る。
息は荒く、顔面にびっしりと脂汗を掻いていた。
「先輩、血が」
シャツの右脇腹辺りが、血を吸って変色している。
「弾は貫通している、大丈夫だ」
「大丈夫なわけないでしょう!? 救急車を呼びます」
黒木先輩は、携帯電話を取り出した僕の手を掴んだ。
「その前に聞け、アイツは河合奈津美を狙っている」
「どういうことですか?」
「アイツには姉がいた。その子供が産まれていれば、河合奈津美と同じ年齢だ」
「まさか、原田監督の?」
「同じ血が流れているのかと思うと、恥ずかしいやら何やら……」
黒木先輩は、途中で何度も顔をしかめていた。
「だとしても、なぜ奈津美を狙う必要が?」
「自分の姉が産めなかった原田の子を、他の女が産んでいるのが気に入らないんだろうよ。とんだシスコン野郎だ」
「……とにかく、救急車を」
「構うな、自分で呼べる。奴は非常階段から逃げた、追うんだ」
持って行け、と黒木先輩は拳銃を差し出した。
冷たく黒光りするそれに寒気を覚えながらも、僕はそれを黒木先輩から受け取った。
力を抜いて両手で構えろ、視線と銃口の向きは常に同じにしろ、二つだけの簡潔な注意事項を聞いて、僕は部屋を飛び出した。
* * *
玄関を出て階段を駆け下りる。
五階から四階へ、四階から三階へ。
四階と三階の踊り場で、三階の扉から飛び出すパオロの姿を捉えた。
「止まれ!」
僕は思わず日本語で叫んでいた。
パオロは拳銃を構えた僕を一瞥すると、そのまま僕に構うことなく階段を駆け降りていった。
指は引き鉄を引いていたが、安全装置を解除していなかったために弾は発射されなかった。僕はそのことに安堵した。
喉はカラカラに渇き、ドッと汗が噴き出していた。もしも弾が発射されていたら、僕はパオロの命を奪っていたかもしれないのだ。考えただけで恐ろしかった。
パオロが飛び出してきた三階の部屋には、まだ由佳がいたはずだ。
パオロを追って階段を降りるか、由佳の無事を確認するか。迷っている時間が勿体無い。
「由佳! 無事か!?」
僕は玄関から身体の半分を突っ込むと、無事を確かめるために由佳の名を呼んだ。
……が、返事がない。まさか、と嫌な予感が脳裏を過ぎる。