セクエストゥラータ
明日の試合終了というタイムリミットが訪れるまで、僕の目的に向かって進むだけだ。
―― みんなで日本に帰るんだ
ノブを回し、扉を十五センチ引き開ける。
隙間から中の様子をそっと窺うと、嫌な感じがビシビシ伝わってきた。
中にいるのであれば、ノックした時点で気が付いている。出てこないのは、いないのか後ろめたいのか。どちらにせよ、無防備に足を踏み入れるのは得策じゃない。
隙間から見えたのは、タイル張りの床と木製テーブルに椅子が一脚。玄関を開けてすぐがダイニングキッチンというのは、イタリアでもよくある間取りだ。
奥へと続く短い廊下の更にその奥に、椅子に座った人影が見えた。
声を出せないように猿ぐつわを嵌められ、後ろ手に縛られたうえに、椅子にも縛り付けられている。うな垂れるように俯いていて顔がよく見えないけれど、それは由佳に間違いなかった。
僕は反射的に前に進み出て、室内に足を踏み入れた。
扉を大きく開けた際に錆びた蝶番が悲鳴を上げ、それを耳にした由佳が顔を上げて僕に向ける。
瞬間、世界から音と色とが消える。
突如として緩やかになった時の流れの中、湧き立つ鳥肌とそれに先立って全身を巡る悪寒に蹂躙され、抗することも叶わぬまま何者かに身体の支配権を強奪される。
僕は考えるよりも早くに前方に飛び込んでいた。
ブン、と背後で空を裂く音がする。
タイルの床を転がって振り返ると、特殊警棒を持ったパオロが僕を睨んでいた。
「パオロ!?」
「ユウ!」
互いに名を呼び合った直後、僕が入ってきた扉から人影が飛び込んできた。それはパオロに向かい一直線に進み、背後から羽交い絞めにする。
「先輩!」
飛び込んできたのは黒木先輩だった。
パオロの手からこぼれ落ちた特殊警棒が、僕の足元へ転がってきた。僕はそれを拾いはしたものの、大男二人の争いに気圧されて、立ち上がることも忘れて傍観してしまった。
二人は共に警官で、一通りの逮捕術を身につけている。それに比べて、僕はただの大学生なんだから、気圧されてしまっても仕方がない。
でも正直、僕が傍観してしまった理由は他にある。
どっちに加勢すれば良いのか分からなかったんだ。
揉み合いの最中、パオロの上腕部から鮮血が飛んだ。割れた皿の破片で裂傷を負ったらしい。
パオロは舌打ちをして僕を一瞥すると、玄関から走り去った。
「先輩!」
「お前は彼女を」
黒木先輩はそれだけを言い放つと、パオロを追って飛び出した。
なぜパオロが? なぜ黒木先輩が?
湧いてくる疑問を押し込めて、奥の部屋で縛られたままの由佳に駆け寄った。情けないことに腰が抜けていて、実際はよたよたと歩み寄ったのだけれども。
「ユウ」
猿ぐつわを外すと、由佳は震える声で僕の名を呼んだ。
僕は由佳を縛っていた縄を淡々と解いていった。
完全に自由になった由佳は、僕の首にしがみついて、怖かった、と何度も繰り返しては泣きじゃくった。
そして、由佳が落ち着きを取り戻した頃、僕は冷淡に言い放つ。
「由佳、僕はそんなにバカじゃないよ」
* * *
この部屋に入って音と色とが消えたあの瞬間、僕の目に映っていたものは奥の部屋で椅子に縛られた由佳の姿だった。
ヴェローナで別れたときとは、服が変わっている。あれから一日半が経っているとはいえ、拉致されたのはミラノの空港で飛行機に乗る前だから、由佳には実質半日しか行動する時間はなかったことになる。
なら、いつどこで着替えた?
そして僕は、由佳と目が合った。由佳は、目元の化粧が崩れていなかった。
勝気で強気な由佳だって、やっぱり女のコだ。こんなところに縛られて監禁されれば、恐怖で涙の一つも出る。由佳のそういう女のコな部分を、僕はよく知っている。
そして、眼球の震え。
僕と目が合う直前、由佳の視線は僕の右後方に注がれた。見てはいけない、という緊張が見て取れた。
僕は、由佳が意図せずに発していた情報によって、扉の影に潜む脅威を感じとり、飛び退いて避けることができたんだ。
ただ、危機を回避できた代償は大きかった。
由佳は蝶番の立てた音に反応して僕を見た。その前のノックに対してではなく、扉が開かれた際に発生した音に対して反応したということだ。
扉が開かれる、というノックよりも更に確実な脅威の接近を感じる現象に反応したのだとしても、そのとき扉のすぐ脇には、息を潜めたパオロが特殊警棒を振り上げて立っていたはずだ。
自分を助けてくれるかもしれない来訪者に、その危険を何とかして伝えようとするものじゃないだろうか?
わざわざ玄関の扉から直接見える位置に縛ってあったのは、訪れるのが僕だと分かっていたからで、僕の動揺を誘うためのものだ。そうでなければ、鍵も掛けずに扉を開けたらすぐ見える位置に由佳を縛っておくのは危険すぎる。
総合すると、由佳も奈津美と同じ、狂言誘拐をしてみせたんだ。
「酷い……」
由佳は僕から離れ、部屋の奥にあったベッドに腰掛けた。小刻みに震えながら、自身の腕をかき抱いていた。
僕はその肩を抱いてやりたいとも思ったけれど、そうするわけにはいかなかった。
由佳は完全に縛られていた。何の道具も使わずに自分自身を完全に縛ることは不可能だ。つまり、由佳の狂言誘拐には協力者がいる。
由佳が空港に向かう手続きをしたパオロか、由佳が空港に向かっている時間は自由に動くことができた黒木先輩か。
頭を振って認めようとしない由佳に対し、追い詰めて白状させる、という選択しかできない僕自身を情けなく思った。
「何時間も縛られていたら、痣が残るんだ。それに、さっき抱きつかれたとき、シャンプーのいい香りがした」
由佳は大きく頭を振る。
「由佳、話してくれないか? 今ならまだ“何もなかった”ことにできるよ。そして日本に帰って、今までみたいに楽しくやろう」
由佳の動きがピタリと止まる。
「あたしに協力してくれたのは……黒木先輩……よ」
蚊の鳴くような小さな呟きだったそれは――
「奈津美は……日本に帰る気は無いんだって……」
ほんの僅かずつ感情が織り込められて行き――
「こうすれば……奈津美の手伝いにもなるって言われて、アンタを守ることにもなるって言われて、あたしは、あたしは……」
その結果――
「アンタがあたしを見てくれないから!」
弾けて、飛んだ。
由佳は、誰よりも長く僕の傍にいて、誰よりも多く僕を見ていてくれた。
僕はそんな由佳を見ていなかったのだろうか。由佳の好意に気付かなかったなんて、きっと嘘だ。僕は把握することに怯えていて、失ってしまうことを恐れていた。だから、由佳のこともきっとそうだ。
現実と向き合うことから逃げていた僕は、ずっとずっと、由佳と僕自身を騙し続けていたんだ。
許されたいと願う気持ちから出る“ゴメン”なんて言葉では、きっと由佳には届かない。それどころか、もっと深い傷になる。
―― 今までみたいに……
ついさっき由佳に掛けた言葉を思い出し、なんと恥知らずなのだろうかと自分を責めた。由佳には申し訳ないけれど、奈津美に対する想いは本物だ。ここで由佳の肩を抱けば、僕は二人を裏切ることになる。