セクエストゥラータ
●第七章 その引鉄は引けない
渋滞で進まなくなったタクシーを降り、街灯とヘッドライトによって浮かび上がった赤レンガの街並みを駆け抜ける。
既に陽は沈んでいるが、イタリア全土を包むW杯の熱気は冷める様子を見せない。
―― だってキミは、もう諦めたのでしょう?
愛花さんのその言葉は、間違いなく僕の胸を抉った。深く深く抉ったけれど、そこに傷は存在していなかった。
もうサッカーはしない。もうサッカーはできない。もうサッカーにはならない。僕はそのことを受け入れ、奈津美がいてくれればそれだけで幸せだと感じるようになった。
その選択を蔑むのは構わない。けれど、奈津美との未来を第一に望むことが、サッカーを続けることに劣るなんて、誰が決めた?
僕はサッカーをしていなくても幸せになれる。僕が感じていた未練は、サッカーそのものに向けられていたのではないから。
「別の道を選ぶことを“諦めた”と呼ぶのなら、諦めないことで過去に引き摺られるより、諦めることで未来に進む、そんな道を選択したまでのことです」
僕のその言葉を聞いた愛花さんは、自嘲気味に笑って話し始めた。
池上愛花。
すべては、彼女が五輪代表候補として北川大介を取材したことから始まっていた。
北川大介の元チームメイトである僕のところへ取材にやって来た彼女は、サッカーを辞めていた僕に興味を持った。そうして、僕の身辺を調べて行くうちに高校時代の先輩である黒木信輝に行き当たる。
黒木信輝に会って話をした際に、僕と同じように気付いたのだろう。既に日本代表監督に着任していた原田良太と良く似ていることに。
恐らく彼女は、僕に対してそうしたように『もうサッカーはしないの?』という問いを投げたに違いない。その返答によって黒木の両親とは血の繋がりがないことを知った彼女は、多くの人が他人の空似で済ませてきた事実を調べ始めた。
河合奈津美。
ストーカーからの視線を感じていた彼女は、中村由佳にそのことを相談し、警察官である黒木信輝を紹介される。
その後、母・亜希穂から自身の出生に秘められた話を聞かされると同時に、黒木信輝とは異母兄妹であることも聞かされる。
彼女は娘であると名乗り出ることを拒否し、これまでのように母娘二人での平穏な生活を望んだ。それは母・亜希穂も望んでいたことだった。
そして、中村由佳に紹介された僕と深く関わるようになった。
黒木信輝。
僕の足のリハビリに付き添っていた際に面識を持っていた中村由佳から、河合奈津美のストーカー対策を依頼される。その状況確認のために家を訪れた彼は、河合奈津美の母である河合亜希穂と会う。
彼に原田良太の面影を感じ取った河合亜希穂は、その動揺を隠すことができず、そのことを不審に思った彼が池上愛花に調査を依頼したことで、河合奈津美と原田良太が親子であると判明するきっかけを生んだ。
池上愛花から実の父親は原田良太である可能性が高いことを聞かされた彼は、原田良太への接触を試みた。その目的は、母の墓に手を合わせて欲しい、というただそれだけのものだった。だが、プレイボーイだった原田良太はその手の事柄にはうんざりするほど振り回されていたため、二人の親子関係を示す物的証拠がなかったこともあり、全く相手にされず冷たくあしらわれてしまった。
池上愛花の調査は決定的な証拠を見つけるまでには至らなかったが、最終的に彼の説得に応じた河合亜希穂の供述により、河合奈津美と原田良太の親子関係は決定付くものとなった。
自分と同じような境遇である河合奈津美の存在によって、原田良太から相手にされなかったことへの憤りを忘れることができた彼は、気分を切り替えて実の母が命を落とした事件の調査を再開することにした。
これが、愛花さんの口から淡々と語られた三人の繋がりだ。
あまりにも饒舌に話すことを不思議に思い、僕は思わず、なぜ、と問い掛けた。
「誰かの代わりに戦うことができるのなら、それを証明して見せて」
懇願するような眼差しが、それ以上の質問を封じた。
何らかの事件を起こし、原田良太を被害者もしくは被疑者とすることができれば、合法的にDNA鑑定を行うことができ、親子関係を証明する動かぬ証拠となる。また、DNA鑑定は異母兄妹であることも証明可能だ。
ただ、話を聞いた限りでは、奈津美も黒木先輩も原田監督との親子関係が公になることを望んでいない。パオロとの亀裂が生じた原因は、そのあたりにあるのかもしれない。
よし、もう少しだ。
弾む息もそのままに、街灯に張り付けられている小さな区画表示板を凝視する。愛花さんに聞いた住所が示す場所は、もう目と鼻の先だ。
短く息を吐いて、僕は再び走り出した。
* * *
辿り着いた先には、ボロボロの安アパートがあった。
他の建物と同じ赤レンガ造りで、特に古いというわけでもないけれど、清掃が行き届いていないせいか、建物に歴史を感じてしまう。
各階に一部屋ずつの細長い造りの建物で、各階の踊り場に申し訳程度の照明が灯されていた。
階段を登り三階へ。
目的の場所と思われる錆びた蝶番で固定されている木製の扉には、ネームプレートも郵便受けも見当たらなかった。
扉を前にノックするべきかを一瞬迷い、結局ノックする。ここまで来て躊躇うことなど何もないはずだ。
ゴゥン、ゴゥン、と鈍く湿った音が鳴ったが、扉にも扉の向こうにも変化は感じられない。
ノブにそっと手を添えて、握る。
ゆっくりと、ゆっくりと回す。僅かな金属音と共に回るノブは、この扉に鍵が掛けられていないことを僕に伝えた。
―― 私にも、私の目的がある。
愛花さんは、それは何か、と問うことをせず黙って話を聞いていた僕に、満足気な笑みをみせた。
訊ねてはいけない気もしたし、口を挟むことで話が止まってしまうことも避けたかった。加えて、一気に流れ込んできた情報を整理するのに手一杯だった。
ここで、僕の考え違いが一つ判明した。
奈津美も、黒木先輩も、パオロも、そして愛花さんも、それぞれにそれぞれの目的があって行動していた、ということだ。
僕は、奈津美と黒木先輩がタッグを組んで、本来の計画を遂行しようとするパオロから離反し、対立しているものだと考えていた。だから僕は、愛花さんが“どちら側か”を探ろうとしていた。
汚く言えば、目的達成のため、互いに互いを利用し、足を引っ張り合っていたんだ。ただ一つ、僕に真相を悟られない、という点を除いて。
そうであれば、連携が取れていなかったことも頷ける。
すべてを話すことはできないけれど、と前置きをして、由佳が拘束されていることを僕に告げた。予想していたこととはいえ、現実に起きていたのだと知った僕は、そのショックを隠せずにいた。
動揺する僕に、愛花さんは一つの住所を告げる。
由佳を巻き込んでしまったことは、愛花さんにしても本意ではないらしく、何とかできないかと頭を悩ませていたと言った。
愛花さんが僕に打ち明けたのは、僕を利用するための方便だったのかもしれない。
けれど、それでも構いはしない。騙されても、利用されても、僕は走り続けるだけだ。