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セクエストゥラータ

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●Intermezzo(愛あればこそ)


 一度だけ、逃げ出したくても逃げ出せなかった、という経験をしたことがある。
 それは、僕の最後の試合となった県大会決勝の直前。
 その試合、僕は点を取らなければならなかった。ゴールを決めなければならなかった。他の誰でもない、この僕が。
 チームメイトの期待を一身に背負い、僕は試合に臨まなければならなかった。
 大会期間中、僕は夢を見ていた。同じ夢を。毎晩。毎晩。
 試合中の得点チャンスをすべて外してしまう。そんな夢だ。
 勝ち進む度に、ボールを思うように蹴れなくなっていった。身体は思うように走らなくなっていった。
 そして決勝戦は、まさに夢で見たような試合展開になった。
 何度もチャンスはあった。それを僕が外した。
 シュートが正面に飛んでしまったり、ファウルを取ってもらえなかったり。あと一歩、あと五センチ、ほんの一呼吸。
 ゴールを決めることができないまま、前後半の八十分が終わる。
 そして、延長が始まる。
 あの瞬間が、訪れる。
 ボールの落下点は四歩先だった。走り込む僕の右後方から来る山なりのパスは、大介と二人で何度も練習したボールだ。
 世界から音と色とが消える。
 その現象が試合中に起こったとき、僕は敵味方を問うことなくフィールドにいる全員の動きを把握することができた。
 だから、見えていたんだ。
 延長戦の途中から入ってきたセンターバックが、大介のパスを直接蹴り出そうとしていたことが。
 僕は構わずに飛び込んだ。
 僕は分かっていたんだ。飛び込めば無傷では済まないことも、PKになれば大介が確実に決めてくれることも。
 僕の足一本でみんなが本大会に進めるのなら、僕は――

 僕は僕自身を裏切った。
 サッカーを再開することができなかったのは、部に戻ることができなかったのは、みんなの純粋な思いを穢してしまったからだ。
 僕は、エースストライカーなんかじゃない。
 自分の足でゴールを決めることを諦めたストライカー。
 それが、僕の正体だ。


*********
 愛あればこそ
 【井上 祐】
*********


 僕は認めたくなかった。
 何の前触れもなく、唐突に発現した能力“ゾーン”の存在を。
 僕は恐ろしかった。
 一切視界に入れていないはずのプレイヤーの動きが、一挙一動に至るまで完全に把握できてしまうこの能力を、僕は何よりも恐れていた。

 最初に“ゾーン”を体験したのは、小学生のときだった。
「音と色とが無くなって、どう動けばボールが飛んでくるのか分かる」
 コーチも監督も、僕のその言葉を信じなかった。
 極限の集中の世界“ゾーン”という言葉は、既にスポーツ界では一般的に使われていて、それを知った僕が嘘を吐いていると思ったらしい。
 どんな天才児であっても、小学生には針の穴を通すような正確なパスを出せる技術はない。なのに、僕に向かって出されたボールは、いつだって僕が思うところに飛んできた。
 一歩先に欲しければ一歩先に、足元に欲しければ足元に。
 コーチや監督は、良いパスだった、良いボールだった、よく見ていた、そんな褒め言葉を、ゴールを決めた僕じゃなく、パスを出したチームメイトに対して言っていた。
 僕に対しては、決めて当然だ、あれなら誰でも決められる、などの決して褒め言葉ではない言葉が与えられていた。
 そういった“決めて当然のパス”を受けた場面での得点がほとんどだった僕は、自分でチャンスを作れない前線の選手は要らない、と言われてレギュラーを外されてしまった。
 その後、チームの得点力は目に見えて下がった。“決めて当然のパス”が全く見られなくなったからだ。コーチや監督は手の平を返し、今まで褒めちぎっていたパスの出し手を叱り飛ばすようになった。
 僕がレギュラーに戻ることは無かった。
 小学校卒業直前に行われた送別の紅白戦で、僕は控えのBチームに入ってプレイすることになった。
 結果は六対〇だった。“決めて当然のパス”を六回受けた僕が、六回シュートを決めた。ただそれだけの試合だった。

「音と色とが無くなって、どう動けばボールが飛んでくるのか分かる」
 僕は、その言葉を口にしなかった。
 どうせ信じてくれやしないんだ、と諦めていたからだ。

 *  *  *

 中学生。
 サッカー部には大量の新入部員が殺到する。
 そして行われる振るい落とし。一年生はボールを蹴ることが許されず、放課後は筋トレと走り込みが延々と続いた。
 一人、また一人と辞めていく。
「オレは“サッカー部”に入ったつもりだったのに」
 全員が口を揃えてそう言っていた。
 ランニングの途中、僕は先輩たちの紅白戦を盗み見た。そして、同じことを思った。
 僕は“サッカー部”に入ったつもりだったのに、と。
 先輩たちの紅白戦は、サッカーと呼べる代物ではなかった。何の戦略も無く、何の連携も無く、全員が思い付きで動き、バラバラに、自分勝手に、その場その場を凌ぐことしか考えていない。
 何の魅力も感じない“球蹴り遊び”だった。
 公立の中学校だからなのか、サッカー部にはコーチも監督もいないということ、ただ顧問の先生がいるだけだということを知った。
 僕はサッカー部に魅力を感じなくなっていた。

 ある日、サッカー部の部室に行くと、室内から煙の匂いがした。それが何の煙であるのかを悟ると、僕はもう笑うしかなかった。
 扉を開け放つと、驚く先輩たちに向かって、僕は言った。
「辞めてくれませんか、サッカーを」
 殴られた。全身を。何十発も。
 蹴られた。全身を。何十回も。
 先輩たちが飽きるまで、僕は一切の抵抗をしなかった。
 そして、血だらけの姿で発見された僕は、病院へ連れて行かれた。
 誰にやられたのか、という質問には答えなかったけれど、質問をした教師には察しが付いていたのだろう。
 一週間の入院生活を経て登校した僕を待っていたのは、腫れ物を見るような同級生たちの冷ややかな視線だった。
 暴力事件を起こしたサッカー部は、一年間の対外試合禁止という処分が下っていた。
 それは、僕のせいらしい。
 部室でタバコを吸っていた上級生たちでもなく、それを知っておきながら放置していた教師でもなく、やる気の無い顧問の先生でもなく。
 全部、僕のせいらしい。
 クラスメイトに、なんであんなことをしたのか、と訊ねられて、僕は改めて自問した。
 答えはすぐに出た。愚問もいいところだった。
 僕はサッカーが好きで、サッカーをしたくて、サッカーをするためにサッカー部に入ったんだ。
 上級生によるシゴキがあるのはまだ良い。サッカー部にコーチや監督がいないことだって、まだ我慢できる。
 僕が許せなかったのは、サッカーそのものへの侮辱だった。
「サッカーが大好きだから」
 僕の答えは、クラスメイトには納得できないものだったらしい。
 クラスメイトの口から、本当は廃部だったところ、一年間の対外試合禁止という処分に軽減されたという話を聞いた。
 どうやら、処分軽減の署名を集めていた生徒がいたらしい。その生徒が中村由佳だと知るのは、もう少し時間が経ってからのことだ。
作品名:セクエストゥラータ 作家名:村崎右近