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セクエストゥラータ

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●第六章 現実と向き合うためには


 『ロミオとジュリエット』シェークスピア作の悲劇。
 舞台はイタリア北部の街、ヴェローナ。
 いがみ合いを続ける両家の子供であるロミオとジュリエットは、恋に落ちて密かに結婚する。
 ロミオの親友が殺され、ロミオはその犯人を殺害し仇をとった。
 ロミオが殺害した相手は街の大公の親戚だったため、ロミオは街から追放されてしまう。
 別の男との結婚を強制されることになったジュリエットは、仮死状態になる毒薬を飲んで自分の葬儀を行い、結婚を逃れてロミオと共に街を出ようとした。
 しかし、ロミオにはジュリエットが仮死状態であることが伝わらず、ロミオはジュリエットの墓の前で毒を飲み、自らの命を絶った。
 その直後、仮死状態から目覚めたジュリエットが姿を現し、ロミオが持っていた短剣を使って、ロミオの後を追う。

 これが、『ロミオとジュリエット』という悲劇の概要。
 奈津美は飛行機で『ロミオとジュリエット』の話をしていた。けれど、ヴェローナの観光で『ジュリエッタの家』には行かなかった。
 小学校で一緒に演劇をした由佳が『ロミオとジュリエット』の話題に触れたのならば、当時を懐かしんだだけとも取れるけれど、奈津美に関してはそういった思い入れは存在していない。たまたま行かなかった、なんてことはもう考えられない。
 これは、誘拐は偽りだ、という奈津美からのメッセージだったんだ。
 どんなことが起きても、ジュリエットが目覚めるまで待て、ということなんだろう。今だからこそ分かるけれど、あのタイミングでそのことに気付ける人間なんて、存在しないんじゃないだろうか。
 とにかく、奈津美は無事なんだ。
 僕が考えなければならないのは、由佳のことだ。
 奈津美の物言いから察するに、由佳は僕と一緒にいると思っているようだ。冷静に考えれば、一人で帰らせる方がどうかしている。由佳の消息が掴めなくなったのは、間違いなく僕のミスだ。
 大前提として、全く知らない第三者に誘拐された、なんてことはありえない。由佳は日本人のツアー客と共に行動していたのだから。
 それでも第三者に誘拐されてしまっていたのなら、僕にはどうすることもできない。だから、可能性から除外する。
 由佳は何も知らず、何にも関与していない。途中で降りることは考えられない。あのまま高速バスに乗ってミラノの空港まで行ったと考えるべきだろう。
 ミラノには、由佳の顔を知っているカルロさんがいる。パオロからどのバスに乗っているのかを聞いていれば、狙って連れ去ることは可能だ。
 ただ、そうなると別の疑問が浮かび上がってくる。
 カルロさんと関わりは、奈津美の誘導によってタクシーに乗ったことで始まっている。二人は協力関係にあったはずだ。それなのに、由佳がカルロさんと一緒にいることを、奈津美が把握していないのはおかしい。
 カルロさんが関係していない、という可能性を除外した場合、考えられることは一つ。
 協力関係は、途中で終わっていたんじゃないだろうか。
 ホテルのロビーで会った奈津美は、僕の身を案じていた。それは、僕が危険に晒されているということ、もしくはその可能性があるということを示している。
 僕は人質なんだ。つまり、誘拐されていたのは僕だってことだ。僕は、気付かないうちに、気付かないように誘拐されていたんだ。
 そして、万が一僕がそのことに気付いて逃げ出したときの保険として、由佳も攫った。
 奈津美を脅迫するのに有効なのは僕だ。僕を脅迫するのに有効なのは、奈津美を除けば由佳が一番だ。
 奈津美と黒木先輩は、何かの目的があって行動している。手伝いたいけれど、巻き込みたくない、という奈津美の意思も尊重してやりたかった。
 だから僕は、邪魔だけはしないようにしたいと思っていた。
 けれど僕は、自分から捕まりに行ってしまってたってわけだ。
 もしそれが真実なら、傑作だ。もう笑うしかない。

 まずは目的について。
 奈津美の目的は分からないままだ。
 奈津美と黒木先輩が、原田監督の婚外子だというのは本当のことだろう。僕にそれを教えたことにどんな意味があったのかも、今のところ分かっていない。
 次は奈津美たちとパオロとの協力関係について。
 いつ結ばれて、いつ破綻したのか。
 奈津美は、飛行機の中で狂言誘拐であるというメッセージを込めた『ロミオとジュリエット』の話をしていた。それは、狂言誘拐がイタリアを訪れる前から計画されていたということを示している。
 つまり、ほぼ最初から両者の協力関係は成り立っていなかったということになる。
 奈津美には、イタリアを訪れる必要があった。もしくは、訪れることに利点があった。それはパオロに協力することへの交換条件として提供されたのだと思う。
 協力はしたくないけれど、無視できない何か。
 例えば、父親の情報。
 パオロは原田監督の子供である奈津美を利用するためにイタリアに呼び寄せ、奈津美は利用されるのを避けるために狂言誘拐を実行して姿を隠した。
 こうした場合、僕には“奈津美が何者かに誘拐された”ことをパオロに伝えるという役割が生じる。
 タクシー運転手の兄カルロを通じてヴェローナの刑事であるパオロとの繋がりを持たせ、僕に伝える役割を実行させた。
 これなら、協力関係ではないのにカルロのタクシーに誘導した理由も分からなくもない。
 でも、何かが違う。
 自分が利用されてしまうことを予見していなければ、狂言誘拐の計画を立てておくなんてことはできないし、そうしなければならないような信用できない相手の元に、恋人である僕を行かせたりするだろうか? いやいや、ノロケてるわけじゃない。
 何か大きな利点があったのだろうけれど、僕にはちょっと思い付けそうにない。
 どんなに考えたところで、証拠がなければ空想の域を出ることはない。
 結局、何にも分からないままだ。

 *  *  *

「あの……どうしたんですか?」
 恐る恐る掛けられた声に、僕は我に返る。
 どうやら、話の途中で考え込んでしまっていたらしい。
「あぁ、ごめんなさい。ちょっと考え事をしていました」
 僕は満面の作り笑いを向けた。この場合は仕方ない。うん。
「宿が見つからないようだったら、僕の部屋で寝るといいですよ」
「そこまでしてもらうのは、さすがにちょっと……」
 言ったあとに気が付く。いくら年下とはいえ、初対面の男の部屋に転がり込む勇気はないだろう。
 だからといって、野宿させるわけにはいかないし、僕に下心があるわけでもないし。
 僕は携帯を取り出す。
「気が変わったら電話してください。僕は構いませんから」
 番号を表示させるために携帯電話を開く。普段から使っている自分の携帯番号なら覚えているものの、さすがにレンタル電話の番号までは覚えていない。

 そこで二人と別れ、僕は部屋に戻ることにした。
 エレベーターホールへ向かい、到着するのを待つ。
 到着したエレベーターからは、日本人の団体が降りてきた。すれ違いざまに聞き耳を立てると、少し遅い昼食に向かうところらしい。
 代わってエレベーターに乗り込んだのは、僕一人だけだった。
 ゆっくりと扉が閉まり、静かに上昇を開始する。
「ヒトリボッチ、か」
作品名:セクエストゥラータ 作家名:村崎右近