セクエストゥラータ
僕が黒木先輩に対する疑いを持ったのは、偶然の産物だとばかり思っていた物事が、そのまま偶然の産物であった場合、この事件が成立しなくなってしまうことに気付いたからだ。
僕は偶然を装った数々の行動の裏にあった作為に気付いた。そうなるように黒木先輩が仕向けていたからだ。
だからそれは、黒木先輩からのメッセージなんだ。
偶然の産物だと思っている物事は、実は偶然の産物じゃない。
奈津美と黒木先輩の行動にも、何かのメッセージが隠されているかもしれない。
順に思い出していこう。
まずは奈津美の行動、日本を出たところから。
飛行機の中で、『ロミオとジュリエット』の話を聞かされたけれど、キャビンアテンダントの話ともども関係ないだろう。
空港では、タクシーのぼったくりに会いそうになった由佳に、僕と二人で事情を説明していた。
ミラノ大聖堂では、ミサンガの詐欺商法に会いそうになったところを由佳に助けられていたな。
そのあとはホテルで食事して、日本に帰ったらケーキ屋に行く約束をして――
翌日に行われた試合の直後、奈津美はいなくなった。
次は黒木先輩だ。
黒木先輩は、奈津美と入れ替わるようにして僕の前に現れた。
ホテルに帰って、僕と一緒にいるところに奈津美を誘拐したという電話があった。
そういえば、あのとき黒木先輩は迷いなく“父親”という単語を口にしていたな。
それから黒木先輩は日本に電話するために部屋を離れ、その間に犯人からの二度目の電話があった。
翌日、黒木先輩は日本に帰ると言って僕と別れた。
それ以降、黒木先輩は奈津美を誘拐した犯人役として僕に接触している。
黒木先輩が日本に帰っていないのは、パオロに出国記録を調べてもらったことで判明した。それがなければ、僕は今ここにいないかもしれない。
パオロと会ったのも、偶然。
空港のタクシー乗り場で、パオロのお兄さんであるカルロさんのタクシーに乗り合わせたという偶然の縁だ。
由佳がタクシーのぼったくりに会いそうになっていなければ、タクシーの順番が変わってしまって、パオロには会えなかっただろう。
騒ぎを起こすことで、カルロさんのタクシーに乗れるように調整したとも考えられなくもないけれど。
……いや、おかしいぞ。
奈津美はタクシーのことは知っていたけれど、ミサンガの件については知らなかった。僕のように下調べをしていたというのなら、両方とも知っているんじゃないだろうか。
本当は奈津美が時間稼ぎをする予定だったところ、“偶然”由佳が騒ぎを起こしてしまったのか、カルロさん以外のタクシーに乗り込むのを防ぐために止めたのか。
どちらにしろ、詐欺紛いのぼったくりだと知っていたわけじゃないとすれば、ミサンガの件を知らなかったこととの整合も取れる。
いやいや。パオロを疑ってどうする。
仮に、パオロに何らかの動機があって加担しているとしても、僕と一緒に行動する理由がない。
* * *
僕は短く息を吐いた。
やはりどうしてもタバコの匂いが鼻についてしまう。
「ん? どこに行くんだ?」
パオロは部屋を出ようとした僕を呼び止めた。
「咽が渇いたんだ。売店で何か買ってくる」
「飲み物なら冷蔵庫に入ってるだろう?」
さっき感じた違和感の正体に辿り着くまで、あともう一歩といったところだ。最後の一歩を踏み出すためには、このタバコの匂いがどうしても邪魔になる。
「何となく嫌なんだよ」
ロビーの雑踏の中にいた方が、この部屋にいるよりは集中できそうだった。
部屋を出た僕は、ホテルの売店で水を買った。こういった施設内で売られている商品は、やっぱり値段が高い。ただ、そんなことは言っていられない。
「あの、すいません」
水を口に含んだところで、唐突に話し掛けられた。
耳に飛び込んできた日本語は、女性のものだった。
「何か?」
振り向くと、見ず知らずの日本人女性が二人、寄り添うようにして立っていた。見るからに不安そうにしている。
「英語が通じなくて」
二人は、関口と秋野と名乗った。
秋野さんがアレルギーを持っているらしく、それが材料に使われていないかどうかを知りたかったらしい。
英語が世界各国で通じるなんてことはなく、高級ホテルであったとしても、売店の店員までもが語学に堪能なんてことは滅多にない。
「昨日までいたヴェローナのホテルでは通じたんですけど」
「僕も昨日までヴェローナにいたんですよ」
偶然ってのは、こんな些細なことなんだ、と僕は思う。
「やっぱりサッカーですか?」
上目遣いに訊ねてくる。
「えぇ、まぁ。少しだけ観光もしましたけど。お二人は?」
「私たちもサッカーの応援です。試合の観戦チケットは持ってないけど、スタジアムの周りで応援したいと思って」
二人でイタリアに来たのだろうか。少し年上に見えるけど。
売店の店員に原材料を訊ねたところ、ただのバイトだからそんなことまでは知らない、という答えが返ってきた。星の付いているホテルではないのだから、仕方がないと言えば、仕方がないことなのかもしれない。
「ルームサービスなら、アレルギーの対応もしてくれると思いますよ?」
「私たち、ここの宿泊客じゃないんです」
どういうことかというと、それは単純な話で、今夜泊まれる宿を探してホテルに来たものの、やはり空き部屋はなく、小腹が空いたので売店にあるもので満たそうとしていた、ということらしい。
ホテル内の売店であれば、普通の飲食店よりも英語が通じる可能性は高いだろう、と考えてのことなのだろうけれど、ボローニャでは、英語よりも日本語が通じるお店の方が多いんじゃないだろうか。
「言葉が話せるみたいだし、助けてくれそうな人の良い雰囲気だったから」
それが見ず知らずの僕に話し掛けた理由なのだそうだ。
「何で僕が話せることを知っているんです?」
「さっきここのフロントで話してたのを聞いていたんです」
おそらく、黒木先輩の携帯電話を受け取ったときのことだ。
「話し掛けようかどうか迷ってたら、他の人に声を掛けられていたみたいだったから」
そのあと、ロビーでこれからどうするかを悩んでいたところ、エレベーターから降りてくる僕の姿が目に入ったらしい。
「なるほど」
僕は頷いた。それは彼女たちの話に対してじゃない。
僕はさっき感じた違和感の正体に気付くことができたんだ。
ここは日本じゃない。話をしているからといっても、知り合いとは限らない。
同郷の縁。ただそれだけの理由で声を掛けてくることもある。目の前にいる彼女たちのように。
『今のはお前が捜してた女だろう! なぜ捕まえない!? なぜ追わない!?』
奈津美が立ち去った直後、駆け込んできたパオロが発した言葉。
追い掛けなかった僕を叱咤するこの言葉は、当然のことを言っているように聞こえる。
けれど、パオロはこの言葉を発するために必要な前提条件を満たしていない。それは人間性の問題じゃない。
パオロは奈津美の顔を知らないんだ。
顔だけじゃない、背格好、髪の色、長さ、その他、名前と性別以外の何もかもを知らない。