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セクエストゥラータ

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 僕は向かいの席を勧める。
 それに従って腰を下ろした奈津美は、一度だけニコリと笑った。
 遠い笑顔だった。
 テーブルを挟んだ向かいに座る奈津美は、どんなに手を伸ばしても届かない場所で笑っていた。
 そして僕は知る。
 犯人が僕に求めていたものは、協力させることなんかじゃなかったということを。
「貴方たちを共犯にしたくなかったの。でも、何も知らせないまま別れるなんて、わたしにはできなかった」
 犯人が僕に求めていたものは、ただの理解だった。
 僕の口からは、何の言葉も流れ出なかった。聞きたいことはたくさんあったけれど、僕にはどうしても聞くことができなかった。
 奈津美の目が、何も訊かないで、と訴えていたんだ。
「貴方たちは、二十八日の試合が終わるまで、どこも行かずここにいて」
「奈津美」
「お願いだから、ここにいて」
 奈津美は、彼女の名を呼ぶ僕の声を拒絶するように立ち上がる。
「貴方が苦しむ姿を見ていられそうにないの。最初からこうして話しておくべきだった。ごめんなさい」
 今すぐ立ち上がって彼女の手を掴めば――
 そんな僕の意思に反して、身体はピクリとも動こうとしない。
「結婚しようって言ってくれたこと、本当に嬉しかった」

 ―― サヨナラ。

 奈津美は唇だけでそう告げて、僕の視界から姿を消した。
 その余韻を打ち消すように、パオロの怒鳴る声が飛び込んでくる。
「ユウ! 何やってる!」
 声に振り向くと、パオロはロビーの人込みを掻き分けながら駆け寄ってきていた。
 僕が口を開くよりも前に、パオロは駆け寄った勢いそのままに言葉を続ける。
「今のはお前が捜してた女だろう! なぜ捕まえない!? なぜ追わない!?」
 なぜかって?
 僕が教えて欲しいぐらいだよ。

 *  *  *

 部屋は予想に反して豪華だった。
 尤も、比較対象が僕の部屋(一K)なので、ほとんど部屋は豪華という評価になってしまうのだけれど、寝室以外にもう一間ある部屋を、豪華という以外になんて言えばいいのか僕は知らない。
 寝室にはベッドが二台。それから、もう一間(ここをなんて呼んでいいのか僕は知らない)には、横長のソファーとそれに高さをあわせてあるテーブルが一脚ずつ。それと小さめの一人掛けソファーが一脚。
 テレビまでもが備えてあって、無料で視聴できるらしい。無料といっても、しっかり部屋代に含まれているんだと思うけれど。
「いい部屋だ」
 パオロは、タバコを咥えたままソファーに身体を沈めていた。テーブルにはしっかりと灰皿が置かれている。
 僕が黙っているせいか、パオロは不機嫌そうにタバコを吸い続けていた。しかし、その煙が部屋に充満することはなく、何処かへと消えている。豪華な部屋だけあって、換気性能も大したものらしい。
 僕は開かない窓から空を見上げ、流れる雲に視線を預けていた。
 ロビーでの奈津美との会話は、パオロには伝えていない。言えば認めてしまうとか、奈津美を庇っているとか、そんな理由で黙っているわけじゃない。
 言ってしまえば、違和感。
 僕は釈然としない何かを感じていたんだ。
 何に対しての違和感なのかは掴めていないのだけれど、それはとても大事なことのようで、僕はそれを無視できないでいた。
 パオロが怒るのも分かる。
 奈津美を探し出して助けるために協力してくれているのだから、それをお願いした僕だって、奈津美を探し出して助けるために全力を尽くさないとダメだと思うんだ。
 だから僕は考えなければならない。これから先、僕はどうすればいいのか、そして、どうするべきなのかを。
 そのうち一つの答えは、とっくに決まっている。

 ―― 僕は奈津美を助けたい。

 奈津美は何らかの目的を達成するために、イタリアでこの誘拐騒ぎを起こしたんだ。
 だから僕は、奈津美を助ける。
 たとえ、奈津美が僕を巻き込みたくないと思っていたとしても、それは変わらない。
 だから僕は考える。
 奈津美は何のために誘拐を演出して、何のために自分の出生の秘密を知らせて、何のために僕を原田監督に会わせて、何のために僕の前に現れたのか。
 僕を共犯者にせず、僕に騒ぎの目的を伝えたかったのならば、手紙でも何でも良かったはずじゃないか。
 目的の達成を手伝うこと。
 こんなバカなことをやめさせること。
 そのどちらが本当の意味で奈津美を助けることになるのかを、しっかりと見極める必要がある。
 それには、目的が何なのかを知らなければ、何も始まらない。
 まず最初に、僕は黒木先輩に謝ることにした。
 黒木先輩が奈津美を誘拐したのだと思っていたけれど、先輩は奈津美の協力者だ。僕に恨まれる犯人役を務めている。
 高校時代、黒木先輩はよく言っていた。
『すべての動きに意味を持たせろ』
 これはサッカーの話だけれど、黒木先輩が関わっているのだから、そう考えてみても損はないはずだ。意識せずにやっていることだってある。
 試合でコンビを組んだ経験は少ないけれど、黒木先輩の動きはずっと見ていた。
 僕が隣にいたら、あぁするのに、こうするのに、なんてことを考えながら、フィールドの外からずっと見ていた。ずっと、フィールドの中に入りたいと思っていたんだ。
 僕はもう、外から眺めているだけなんて嫌なんだ。
 先輩、僕は自力でそこまで辿り着いてみせます。

 落ち着こうとして深呼吸をすると、肺に大量のタバコの煙が流れ込んできた。換気は完璧とはいかないらしい。
 何も話していないという負い目があるから、パオロに吸わないで欲しいなんて言えない。パオロのおかげでここまでやって来れたのだから、これぐらいは僕が我慢しないといけないと思う。
 それにしても、なんて不思議な状況なのだろうか。
 日本から遠く離れたイタリアで、イタリア人の刑事と二人でホテルのスイートルームにいる。
 ……もし、こんなことが起きていなければ、奈津美との新婚旅行はやっぱりイタリアだったのかな、なんて考えみたりもした。
 仮にそうだったとしても、貧乏な僕じゃこんな豪華な部屋には泊まれないだろうな。この部屋、一体いくらなんだろう?
 この部屋を予約したのは黒木先輩なのかな。
 就職して給料を貰っているからといっても、一介のお巡りさんが払えるような値段だとはとても思えない。
 お金を貯めていた? この日のために?
 そうは言っても、二ヶ月や三ヶ月で作れる額じゃないはずだ。だとしたら、この誘拐騒動はそれなりに昔から計画されていたことになる。それに、W杯の観戦チケットだって、必ず取れる保証なんかなかったはずだ。
 まだ他に共犯者がいる可能性がある。
 確実にチケットが取れて、スイートルームの宿泊代金を捻出できるような人物が――
 そんなことは何の手掛かりにもならないけれど、他にも共犯者がいるかもしれないというのは、充分に考えられることだ。
 それは果たして、共犯者か、協力者か、それとも――

 そもそもこの騒動は、奈津美がイタリアを訪れていなければ始まらなかった。そのキッカケを作ったのが黒木先輩だったことから、僕は黒木先輩を怪しいと思い、疑った。
 その結果、その通り黒木先輩は誘拐騒動を起こした犯人だった。
作品名:セクエストゥラータ 作家名:村崎右近