セクエストゥラータ
確かに見られて困るような物は無いし、ほぼ毎日掃除もしてる。しかし、そういう問題じゃないんだということを察して欲しい。
「じゃあ、わたしのアドレス教えるね」
おぉー! 連絡先ゲットォ!
二人が去った後、由佳から届いたメールによると、河合奈津美はここ最近ずっと誰かの視線を感じているらしい。いわゆるストーカーに悩まされているというわけだ。
僕じゃないぞ?
単位の関係上、どうしても一人にならざるを得ない時間があるらしく、大学内に一人でいるのは怖いというのだ。
その時間の僕は……空いてる。
憧れていた彼女とお近づきになれる、もとい、力になれるこのビックチャンスを逃す手は無い。言い直したけどおかしなままだな。
とにかく、僕は彼女に頼りにされる存在になったのだ。
* * *
二年後の四月。
僕は完全無欠の大学四年生。今までの人生で最高の二年間だった。なぜかというと、僕は河合奈津美と付き合うことになったのだ。
僕は二十年と数ヶ月にして、『男』になった。皆まで言ってくれるな。過ぎたことだ。
この二年間、何者かに尾行されることもなく、僕にも僕の部屋にも嫌がらせが行われることはなかった。ストーカーはいなくなったのだろうと二人して安心していた。
ワールドカップイヤーの今年、テレビではどのチャンネルでも特集を組んでいた。それも仕方がない。今年の日本はそれほどまでに強い。間違いなく日本サッカー史上最強のチームだ。世界ランクは二年ほど一桁をキープしている。
今年は史上最強であると言われている国がもう一つある。
今回のW杯開催国イタリアだ。勿論、その他の名立たる強豪国も、強豪の名に恥じない実力を持っている。だが、日本とイタリアの一騎打ちになるだろうという下馬評は、真実を伝えるものだった。
チャンネルを変える。
日本をA評価とした場合のW杯出場国の戦力分析をやっていた。
日本
攻撃力B+ 支配力A+ 守備力A 総合A
イタリア
攻撃力B 支配力A 守備力S 総合A
総合A評価なのはこの両国のみ。
また、EU諸国も似たような評価を出していると報じていた。
テレビを消す。
サッカーを辞めて三年経った今でも、ジョギングは日課となっている。
奈津美も、美容と健康のために一緒に走る、と言い出したのだけれど、一緒に走るには速すぎる、と言われてしまった。奈津美に言わせれば、ジョギングではなくてランニングの域なのだそうだ。
そうそう、『奈津美』と名前で呼んで欲しいと言われ、そうするようにしている。実はまだ少し恥ずかしい。
着替え終わるのと同じタイミングでチャイムが鳴った。
奈津美は鍵を持っているので、チャイムなんて鳴らさないし、奈津美と付き合うようになってからは、さすがの由佳も事前にメールで確認するようになった。
本人曰く、『最大限に気を遣っている』のだそうだ。
それならまず鍵を返せ。というか渡した覚えも無いのだけれど。
もう一度チャイムが鳴った。来客とは珍しい。
「どなたさまでー」
ドアを開けると、紺のスーツとサングラスで身を固めたガタイのいい男が立っていた。
「こんばんわ、井上クン」
一瞬ドキリとする風貌だが、見知った顔だ。
「お久しぶりですね、黒木先輩」
「元気でやってるか?」
「えぇ、相変わらずですが」
「上がっていいか?」
「どうぞどうぞ」
黒木信輝(くろき のぶてる)
高校の二年先輩でサッカー部の主将だった人だ。
僕と同じFWで、いろいろと教えてもらったものだ。
「今回はいきなりでしたね」
「すまんな、近くまで来たものでな」
いえいえ構いやしないですけどね。なんて返事で茶を濁す。
黒木先輩は卒業後も時折部活に顔を出してくれて、すごく気に掛けてくれていた。
僕が怪我をしたときも、リハビリ施設が充実した病院を紹介してくれて、いろいろと世話を焼いてくれた。そして、僕がサッカーを辞めることに最後まで反対した人だ。いや、今でもまだサッカーをやって欲しいと願っているらしい。
黒木先輩は、僕が大学でサッカーを続けていないことを聞きつけてから、僕の家を訪れるようになった。
サッカーを再開するようにと説得され続けて二年が経つ。
黒木先輩には恩義があるけれど、僕はもうサッカーをすることはない。だから、またサッカーをやるように薦められやしないかとビクビクしてしまう。断るのが忍びないだけで黒木先輩が嫌いなわけじゃないんだ。
「実は、お前に見せたいものがある」
黒木先輩は、スーツの懐に手を入れる仕草がとても似合う。拳銃が出てきても不思議ではない。
事実、黒木先輩の職業は警察官だ。交番勤務だが。……別に交番のお巡りさんを軽んじているつもりはない。制服を来ているから拳銃は懐じゃなくて腰に装着してるんだよ、と言いたかっただけだ。
黒木先輩が懐から取り出したのは、サッカーチームの名称が印刷された茶封筒だった。
―― またか。
内心ため息をつく。
「先輩、何度も言いましたけど、僕はもうサッカーをやるつもりはありません。三年も離れていた僕が通用するほど甘い世界じゃないのは、先輩だって知っているはずです」
「技術は磨ける、身体は作れる、経験は積める。それらは時間が解決する。お前の持っている才能はそのどれにも当てはまらないものだ」
この二年の間に、同じ話を何度聞かされたことか。
いまやスポーツ界では常識となっている“ゾーン”と呼ばれるもの。黒木先輩に言わせれば、僕にはそれ以上の何かがあるらしい。
「まだ身体は鍛え続けているみたいだしな」
確かに毎日走っておかないと眠れない。お酒に酔い潰れたときは別だけど。
リハビリのために通っていたジムには、習慣というかなんというかで、未だに週一で通っていたりもする。
「健康のためです」
僕はきっぱりと言い切る。でもそれは黒木先輩に対しての言葉ではなかった。
他の誰でもない僕自身が、そう思ったんだ。
* * *
その日、僕は初めて奈津美と喧嘩をした。
他愛のない言い争いだ。けれど、分かっている。悪いのは僕だ。
テレビも雑誌も新聞もサッカーの話題ばかりに染まっている。それが僕を苛立たせる。
高校サッカー選手権大会出場を決める文字通りの決勝戦。
終了間際にペナルティーキックを得て辛くも勝利したその試合を最後に、僕がチームに復帰することは無かった。
この苛立ちはサッカーへの未練を断ち切れていない証拠だ。
分かっているんだ。悪いのは僕なんだって。
「もういいわよ!」
奈津美は部屋を出て行った。階段を駆け下りる足音がここまで聞こえてくる。
外はとても静かだ。
彼女のコートが置かれたままになっていた。
四月とはいえ夜はまだ冷え込む。追い掛ける理由にはなる。少なくとも僕自身を動かすには充分な理由だ。
彼女に対して意地を張っても仕方がないことだし、追い掛けて話せるところまで話そう。まずは謝らなければ。
僕は部屋を出る。
階段を降り、路地へ。
駅方向からこちらへと向かって歩いてくる人影が一つ。
目を凝らす。サラリーマンのようだ。奈津美ではない。