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セクエストゥラータ

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●第五章 求めていたもの


 僕は愛花さんにお礼を言って、パオロが待つ車に急いだ。
 駐車場に向かって歩いていた途中では、日本代表チームを乗せたバスが僕を追い抜いていった。
 車に辿り着くと、パオロは窓を開けてタバコを吸っていた。
「成果は?」
 パオロは僕の顔を見るなりそう訊ねてきた。
「咽が渇いたよ」
 僕はそう答えた。

 イタリアには自動販売機がない。それは防犯上の理由からということもあるけれど、缶コーヒーという文化がないことが大きい。
 それぞれの家庭にエスプレッソ・マシンなどのコーヒーメーカーが備えられていて、更には、ほとんどのイタリア人が行き付けのバール(コーヒーショップ)を持っているかららしい。話し好きのイタリア人が、コーヒーを楽しむ時間も共有できるようにと築き上げた文化なのだそうだ。
 近場の店に入ると、パオロはエスプレッソを注文し、僕はノンアルコールのジュースを頼んだ。
 パオロは僕が話し始めるのを待っていた。原田監督との接触が成功したのかどうかによって、今後の行動が変わってくるからだ。
 でも僕は、パオロには何も話していなかった。
 声に出してしまえば、決意が揺らいでしまうような気がしていたからだ。
 僕は電話を取り出す。ホテルのフロントで受け取った、黒木先輩が契約したプリペイド式の携帯電話。
 登録されている三つの番号から一つを選択して、通話ボタンを押した。

 プルルルルル……
 五回目のコールが終わる。
 何も変わらぬ呼出音が、僕の心臓を締めつける。
 六回目のコールが終わる。
 傍らで僕を見守るパオロの表情は硬い。
 七回目のコールの途中で電話が繋がり、僕はすぐに声を発した。
「奈津美は無事ですか?」
「……。」 返答は沈黙のみ。
 僕は構わずに続ける。日本語で。
「茶番は終わりです、先輩」
「……よく分かったな、井上」
 僕が掛けたのは、黒木先輩が使っていたプリペイド式携帯だ。
 携帯電話のレンタル契約が続行されていること、出国手続きがなされていないこと、そのどちらも確証には至らないけれど、確認するのは簡単だった。
 ただ、電話を掛けるだけでいい。
 もう使われていないのであれば、自動的に音声アナウンスに切り替わり、呼出音そのものが鳴らない。
「気付くように仕向けておいて、よくもそんなことが言えますね」
「そこまで気付いていたのか」
「僕に何をさせるつもりですか?」
「何もない。すべてが終わるのを見届けたあと、ただ日本に帰るだけでいい」
「見届けたあと?」
「そうだ。二十八日の試合が終わるとき、すべてが終わる」
「それは父親への復讐ですか?」

 *  *  *

 原田監督から感じた既視感は、黒木先輩の姿と重なっていたものだった。サングラスを掛けた横顔なんて、驚くほどそっくりだった。
 僕はずっと考えていた。
 僕を原田監督に会わせようとする理由を。
 そして、最初に考え付いたのは、犯人に代わって娘が誘拐されたことを告げさせるというものだった。
 しかし、それでは説得力の面で大きな問題が残る。
 僕は『会えば分かる』という言葉に従って原田監督に会った。そのとき気付いたことは、黒木先輩と原田監督との相似。ただその一点のみ。
 何の事件も起こることなく取材が終わり、その後も犯人からの連絡はなかった。
 そして僕は、犯人から連絡がなかった理由を考えた。
 最初に考え付いたのは、電話番号が隠されていたことに目を向けさせること。電話番号を隠さなければならない人物であると気付かせること。
 もう一つ、犯人は僕が原田監督と接触したかどうかの確認もしてこなかった。つまり犯人には、接触の有無を確認する必要がなかったということになる。
 だとすれば、僕と同じように取材スタッフに紛れて、あの場所にいた可能性がある。
 愛花さんと出会ったのは偶然だから、取材スタッフの中に共犯者がいるとは考えられないし、関係者以外は近寄ることができないように、厳重な警備が敷かれていたこともあって、僕はその考えを捨てていた。
 落ち着いて考えてみると、原田監督に会わせないことで気付かせることと、会わせることで気付かせることの両方が用意されていたことに辿り着ける。
 そして、その二つは同じ人物を指し示していた。
 注意すべきなのは、本来この二つは同時に遂行することはできない類のものだということ。
 犯人は、僕が愛花さんというテレビ局の人間と親しいことを知っていて、更には、このイタリアで偶然の再会を果たしていることも知っていたんだ。
 愛花さんを頼って原田監督に会う可能性も考慮していた。
 犯人が親しい人物だと気付いたその瞬間に、躊躇うことなくその事実を公にできる人間がどれだけいるだろうか。
 僕がそういう人間ではないことは、黒木先輩なら知っている。

 手繰り寄せた手掛かりは、そのすべてが黒木先輩を示していて、僕にはこれ以上無視できなくなってしまった。
 だから僕は、僕の思い違いであることを祈りながら、願いながら、愛花さんにもパオロにも話さず、黒木先輩に電話を掛けたんだ。

 *  *  *

「父親か。そう思ったことは一度もないが……」
「復讐なんて、やめにしませんか」
「これは復讐じゃない。自分が犯した罪に気付かせるためのものだ」
「罪?」
「明日、すべて終わる」
 そこで通話は切られてしまった。
「パオロ、今の電話の相手がどこにいるのか調べられる?」
「勿論だ」
 パオロは携帯を取り出して耳に当てる。
 その間に、僕は考えをまとめる。

 日本に帰らずイタリアに留まって、黒木先輩はこの先どうするつもりなのだろうか。先のことは考えていないのかもしれない。
 黒木先輩は、僕に対して自分が犯人だと気付かせるように振る舞っていた。
 自分が犯人として捕まることで事件を公にし、原田監督が犯した罪と言っていた何らかの事実を、世に広く知らしめることが狙いなのかもしれない。
 原田監督が犯した罪とは何だろうか?
 黒木先輩は、原田監督の子供だった。
 原田監督はそういう女癖の悪い人物だったようだし、婚外子が一人いるならば、二人いても不思議じゃない。
 奈津美と黒木先輩。原田監督の子供が二人揃ったのは、偶然なのだろうか。
 黒木先輩は、同じ原田監督の子供である奈津美にそのことを打ち明けたりはしていないのだろうか?
 原田監督が犯した罪というのが、奈津美にも関係していることだったとしたら、奈津美に打ち明けている可能性は高くなる。
 もしそうなら……

 僕は激しく頭を振ることで、浮かび上がってこようとする言葉を振り払う。
 パオロは、もう終わる、という合図を送ってきた。
 僕は、後頭部にぞわりとした感覚を覚えていた。
「分かった、ありがとう」
 パオロは携帯電話をポケットに押し込んだ。
「すぐ近くだが、行くか?」
 公衆電話のときと違うのは、こちらから掛けたということ。居場所を知られることを計算に入れていない通話だったということだ。
 その場所にならば、向かう価値がある。
 僕が頷くと、パオロはコーヒーカップに残っていたエスプレッソを一気に流し込んだ。
 パオロは運転席に滑り込む。
 僕もそれに続いて飛び込むように助手席に座った。
作品名:セクエストゥラータ 作家名:村崎右近