セクエストゥラータ
私に気付いた彼は、どうも、と微笑みを浮かべて、軽く頭を下げて挨拶してくれた。顔を覚えていてくれたことは素直に嬉しかった。
アブラゼミがジワジワと鳴く並木道で、私は優しく微笑む彼の傷を抉る。
「大介……いや、北川選手のことでまだ何か?」
迷いは無い。
私は痛みの分からない女だと思われるだろう。
「ううん。そうじゃないわ」
いっそ本当に痛みが分からなければ、こんなに胸が苦しくなったりはしないだろうに。
「キミの言葉は驚くほど的確で、嫉妬するほど模範解答だったわ」
でも私は、自分の痛みを訴えたりはしない。
「いや、そんなことは……僕は事実を伝えただけですから」
そんなものは自分勝手すぎる。
そんなものは甘えでしかない。
「今日はね、キミ自身に聞きたいことがあって」
抉られるほうが、何倍も何十倍も痛いに決まってる。
「僕にですか?」
でもね、私が見て欲しいのは、ううん、そうじゃない。キミ自身が求めているものは、その痛みの先にしかないものなのよ。
ジーワジワジワジワ……
私には分かる。
楽をするために傷ついた振りをして甘えている人間と、戦いたくても戦えない、戦う手段が見つからなくて、逃げることしかできなくなってしまった人間との違いが。
きっとそれは、私自身があまりにも空っぽなんだからだと思う。
でもそれだけじゃない。えっちゃんが教えてくれるんだ。この人は本当に傷ついているよって。
私はそんな人たちの代わりに戦うことを望んだ。
私はどう思われても構わない。痛みの分からない女になれるなら、それは私の望むところだ。
そのときの私は、大事なものが一つ足りていないことに気が付いていなかった。
不意にセミが鳴き止んだ。
一瞬の静寂が訪れる。
そうして、私は目の前に佇む彼の傷を抉る。
「キミはもうサッカーはしないの?」
私はえっちゃんの力を借りて、本当は戦いたいと思っている人間を見抜くことができた。
そして私は、幾つかの戦う手段を持っていた。
けれど、“誰かの代わりに戦う手段”は持っていなかったんだ。