セクエストゥラータ
●第二章 まだ心に余裕はある
鳴り響く携帯電話を手にしたまま、僕は黒木先輩と互いに顔を見合わせた。番号は通知されていない。
僕ら四人と愛花さん以外は、誰もこの番号を知らない。
「奈津美か?」
僕は、奈津美ではないという悲しい確信を持っていながらも、電話の相手にそう訊ねる。
「Buonasera. Piacere.」(こんばんは はじめまして)
機械で変えた気持ち悪い声が聞こえてきた。
「女は預かった。要求は次の試合で日本が負けることだ」
そんな内容のイタリア語が耳に届く。
「なんだって?」
「また電話する」
電話はあっさりと切られた。
あまりのことに、僕の頭は理解を拒んでいた。
隣の部屋にいた由佳を呼んで、電話の内容を話した。
「そんな無茶苦茶なコト!」
由佳は声を荒げた。
「一般人を一人誘拐して代表チームに負けろなんて……」
そんなバカげた要求はない。
「あの子の父親は総理大臣でもやっているのか?」
黒木先輩は悪気があったわけじゃない。
残念ながら、奈津美が誘拐されたという事実は揺るがない。普通の女の子を一人誘拐してみたところで通る要求でもない。犯人もそんなにバカじゃないはずだ。もし誰でも良かったのなら、この電話に連絡する必要なんかない。脅迫状をローマにある日本大使館なり警察署なりに投げ込めばいい。
だとするならば、奈津美の親類に日本代表チームの勝敗を左右できる人物がいるのではないかと考えても不自然ではない。
「父親はいないと聞いています。物心が付く前に死んでしまったそうです」
だから奈津美は、僕や由佳が話す父親のことを、楽しそうに、羨ましそうに聞いていた。
僕や由佳の親類には、サッカー日本代表チームと関係が深い人物は思いつかない。
再び電話が鳴る。
愛花さんの番号が表示されていた。
犯人からじゃないと分かるように頭を振ってから、通話ボタンを押した。
「どぉ? 奈津美ちゃん見つかった?」
声の後からは慌しい喧騒が聞こえている。
「奈津美は……誘拐されたみたいなんです」
「そうなの……大変ね……って!? ええぇぇぇぇー!?」
すごい大声だった。知的な年上のお姉さんというイメージが一気に崩れ去る。
本質的には由佳に近いタイプなんだろう。
「警察には?」
「まだ連絡していません。そこでお願いなんですが……」
僕は犯人の要求に無理があることと、また連絡が来ることを伝え、警察には通報しないで欲しいとお願いした。彼女は何か言いたそうだったが、了解してくれた。
「力になれそうなことがあったら連絡して。なんでも協力する」
僕は愛花さんにお礼を言い、通話を終わらせた。
これは暴走したサポーターが起こした誘拐事件ではない。
何かがそう僕に告げていた。
電話を切ったあと、僕は自身の胸の鼓動に耳を傾けていた。
「井上、意外に冷静だな」
黒木先輩は遠慮気味に声を掛けてきた。
「失敗を悔やむ時間は、失敗を取り返す時間に費やした方がいい」
これは他ならぬ黒木先輩に教わった言葉だ。
「僕が泣くことで奈津美が戻るのなら、喜んで泣きます」
黒木先輩はたった一言、そうだな、と言った。
次に犯人から連絡が来るまでに、何かできることがあるはずだ。
僕は思考を巡らせる。
「悪いが少し外す。電話をしてくる。仕事上この状況を黙っているわけにはいかない」
僕は黒木先輩の言葉に返事をしなかった。それを無言の承諾と受け取ったのか、黒木先輩は部屋を出て行った。フロントで電話を借りるつもりなのだろう。
由佳と二人きりの部屋は、物音一つしない静寂の空間となった。
この誘拐事件は不自然なんだ。
一個人にあんなバカげた要求をしたところで通るはずもない。僕は思考を巡らせ続ける。奈津美と誰かを間違えている可能性が高いように思えた。
「ううっ……なつみぃ……」
この部屋の沈黙に耐え切れなくなった由佳が嗚咽を漏らす。普段は男勝りな彼女だが、さすがに限度を越えていたのだろう。
「由佳……」
僕は由佳の肩に手を置いた。
「触らないで!」
その手はすぐに振り払われる。
「アンタ、なんでそんなに冷静なの? 奈津美が誘拐されちゃったのよ? 奈津美はアンタの彼女なのよ!? なんでそんなに落ち着いていられるのよ! なんでそんなに!!」
今の僕たちが奈津美のためにしてやれること、やるべきことは、決して泣き喚くことなんかじゃないはずだ。
「まだ終わってない。奈津美が無事でいられるように、僕たちは落ち着いて対処しなければいけないんだ。僕の態度が感に触るっていうのなら、由佳、構わないから僕を殴れ」
「何よカッコつけて! バカじゃないの!」
……痛い。
思いっきりやりやがった。
「アンタなんかに会わせるんじゃなかった……そしたらこんなことには……」
由佳は力無くへたり込んだ。
頬がヒリヒリする。でもこれで気合が入った。
「奈津美に何かあったら、こんなんじゃ済まさないから!」
そうだ。悪いのは僕だ。由佳が責任を感じることはないんだ。
僕は由佳の肩にもう一度手を置く。今度は振り払われなかった。大声を出したことで、多少落ち着きを取り戻せたのだろう。
震える由佳は、やっぱり女のコだった。
「由佳、睡眠薬を持ってきてもらうから、それを飲んで眠るんだ。いいね?」
「……うん」
由佳の返事には、さっきまでの怒りは見当たらない。
睡眠薬が届けられるのを待って、由佳を隣の部屋に送った。薬を飲ませてベッドに寝かせると、すぐに寝息をたて始めた。余程疲れていたのだろう。睡眠薬が効く前に寝てしまったようだ。
部屋に戻った僕は、ベッドに身を放り投げた。
電話を掛けに行った黒木先輩はまだ戻っていない。
目を閉じれば奈津美の姿が浮かび上がる。
「怖いよな? 待ってろ、必ず助けてやるから」
携帯電話が鳴る。番号は表示されていない。
「Pronto?(もしもし?)」
僕は電話に出た。
前回と同じく、機械で変えた気持ち悪い声が聞こえてきた。
「要求は次の試合で日本が負けること。そうすれば女は無事に帰してやる」
「まて、人違いだ。日本代表チームにとって、彼女にそんな価値はないんだ。僕らはただの一般人なんだ。どうやったって聞き入れてくれるわけがない」
「そうか、知らないのか」
「知らない? 何を知らないって言うんだ?」
「彼女の両親について調べてみるんだな。そうすれば、事件が公になって困るのは誰かってことが分かる。そうそう、こういうとき日本ではこう言うらしいな“警察には連絡するな”と。また明日連絡する。今夜はこの女の夢でも見るといい」
「なんだと!?」
「Buonanotte.(おやすみ)」
そこで通話は切られた。
携帯電話を置いて深呼吸をする。
二回目となる犯人からの電話では、分かったことが幾つかある。あくまでも僕個人の推測でしかないけれど。
落ち着いて考えれば、きっと答えが得られるはずだ。
時刻は午前零時を越えて、日付が六月二十三日に変わっていた。約八時間の時差がある日本は、朝の八時頃になる計算だ。
できることはたくさんある。でも、まず最初にやるべきことは決まっている。
僕は携帯電話に手を伸ばした。