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セクエストゥラータ

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 場内が騒然となった。すぐにあちこちから悲鳴が聞こえだした。
 わたしは忘れない。
 相手チームの選手の不自然な方向に曲がった足と、しりもちを付いたまま立ち上がれなかった彼の姿を。
 彼は赤色のカードを出され、ベンチに戻った。
 相手チームの選手は、下半身に毛布を掛けられた状態で担架に乗せられて運ばれていった。
 それから先のことでわたしが覚えているのは、だんだんと遠ざかって行く救急車のサイレンだけだった。
 そのすぐあと、試合は終わったらしい。

「お前さ、様子見に行ってくんねぇ?」
「へ?」
 その日の夜、彼はわたしに自分が怪我をさせた相手チーム選手の様子を見てくるように言ってきた。
「どうしてわたしが?」と聞き返すと、彼は、見つかったらめんどくせぇじゃん、と言った。
 その言葉で私は悟った。
 わたしがこの人を好きになることはない、と。
 この日この時、わたしはこの人とお別れすることを決めた。
「はぁ? てめぇでいけよ!」
 こんな汚い言葉を使ったのは生まれて初めてだったけど、それくらい頭にきていたんだ。
 彼に言われたからってわけじゃなく、病院に向かった。せめて代わりに謝ろうと思っていたんだと思う。
 それで、病院に来てみたものの、部屋がどこだか分からない。
 帰るに帰れないわたしは、だんだんと人がいなくなってゆくロビーで立ち往生していた。
 わたしに気が付いた看護婦さんが声を掛けてきた。
「あのっ今日、足をっサッカーでっ」
 わたしはしどろもどろになりながら説明する。
「あぁ、井上さんに面会ですか?」
 井上クンっていうんだ。
「はいっ! それデス、その人デス!」
「うーん、面会は午後八時までなんだけど……」
 マッハで時計を探す。携帯の電源は切ってあるから、時間の確認には使えない。
 やっと見つけた時計が示していた時刻は、午後七時五十七分。
 がっくり。何やってんだろわたし。
「あー、もしかして?」
「はいぃ?」
 看護婦さんは突然にやけだした。
 オバサン、まじキモいんですけど。
 言わんとしていることは分かる。わたしを井上クンの恋人だと勘違いしているんだ。
 もーこの際どうでもいい。
「エヘヘ。あの……ちょっとだけイイですか?」
 ちょっと純情ぶってみた。自分でも気持ち悪い。
 この看護婦さんぐらいの年齢の女の人は、女子高生の頭の中には色恋しかないと思ってるって誰かが言ってた。妄想がお得意そうなこの人になら、この手が通用するはずだ。
 女子高生はそんなにバカじゃないんだゾ!
「五一一号室よ、そこのエレベーターからいけるわ」
 わたしは頭を下げてお礼を言い、エレベーターに急いだ。
 チーン。
 五階に着いた。あっという間だ。さすが文明の利器。
 案内板に従って五一一号室を目指す。扉のネームプレートには『井上 祐』と書かれていた。
 扉の前に立ったわたしは、ノックしようとして動けなくなった。
 だって、扉の向こうから聞こえてきたんだ。聞いてしまったんだ。

「くっ……そおぉぉおおお……」

 彼の悲痛な叫びを。彼の咽び泣く声を。
 わたしはどんな顔で会えばいいの?
 どんな顔でなら、彼の前に立てるの?
『こんばんわー 井上クンの足を折った男のカノジョで〜す。カレシの代わりにお詫びにきました〜』
 ……笑えない。笑えないよ。
 わたしはそこから逃げ出した。

 その夜、わたしは眠れなかった。
 病院から出て携帯の電源を入れたら“一応彼氏”からのメールが何通も届いていた。
 一通だって読みたくはなかったけれど、全部読んだ。彼の程度の低い人間性を証明する内容だった。
 でもわたしは、彼に対して怒りを感じることはなかった。何とも思わなかった。そんなことに思考を割く余裕なんてなかった。
 目を閉じると、病院で聞いた悲痛な叫びが甦る。
 彼は、井上クンは眠れているだろうか?
 バカな疑問。眠れるはずなんかないじゃない。
 わたしは自分を哂った。
 カーテンの隙間から、月明かりが漏れていた。
 わたしはカーテンを開ける。
 満月じゃなくて良かった。だって、丸いとサッカーボールを連想しちゃうじゃない。
 夜空には半分ぐらいの月が浮かんでいた。
 これから月が満ちていくのか欠けていくのかは分からないけれど、とりあえずは、今夜の月を見てもサッカーを思い出したりはしないだろうな、と思うとなんだか安心できた。

 次の日、私は学校をサボった。
 お母さんは、昨日帰ってきたときのわたしの様子が普通じゃなかったから、そっとしておいてくれたらしい。
 ありがとう、母よ。
 わたしは病院へ向かった。
 一直線に五一一号室を目指す。
 井上クンには、あのバカに言いたいことがたくさんあるはずだ。
 わたしが代わりにそれを伝えよう。それぐらいしか、わたしにはできない。それぐらいしか、わたしには思いつけない。
「あれ、開いてる……」
 五一一号室の扉は開かれていた。
 わたしはそっと中の様子を覗いた。
「げっ!? 西岡っ!」
 わたしの高校の体育教師だ。そういえばサッカー部の顧問をしていた気がする。
「本当に申し訳ないことをした」
 井上クンに頭を下げている。
「試合中の事故ですから、気にしていません」
 井上クンは微笑んでいた。
 昨夜の叫びを聞いていたわたしには、それはあまりにも悲しい光景だった。足のギブスの白さが、その真新しさが、深く目に染みた。
「明日にでも本人を連れて来ますから」
「ですから、あれは試合中の事故だったんです。だから、謝罪なんてして頂かなくて結構なんです。僕のことは気にしなくていいと伝えてください。顔を会わせるのも辛いでしょうし。ホントに大丈夫ですから」
 井上クンは、まだ微笑んでいた。

 なんでよ? どうしてそんな風に笑えるの?
 涙が…… 涙が止まらないよ。 ねぇ?

 わたしは、昨日届いたメールを読み返す。
『アイツがオレの前に飛び込んできたんだろうが』
『謝る必要なんてねーし』
『こっちが迷惑料もらいてーぐれーだ』
 ……やっぱり、最低だ。
 わたしは一階の売店で買えるだけのお花を買って、通りかかった看護婦さんに五一一号室に届けてくれるようにお願いした。実際は有無を言わさず押し付けて逃げたんだけど。
 今月のお小遣い、全部パァだよ。
 “一応彼氏”に『別れる』とメールした。
 すぐ電話が掛かってきた。休み時間だったらしい。
「わたしに電話する暇があるなら、謝りに行きなよ」
 それだけを言って、すぐに切った。

 それから、もう電話は鳴らなかった。


作品名:セクエストゥラータ 作家名:村崎右近