素敵なあの子と
ホースから飛び出す水が、オレンジ色の夕日を受けてきらきら輝いていた。もうすぐ日は沈む。水平線の向こうに沈み、今度は水平線の彼方にある国を照らすのだ。そしてここは夜になる。
気に入っているわけではないので、そんなに丁寧に手入れをしなくても良いのだけれど、少しは気にかけてやらないとすぐに調子が悪くなるよと、バイク屋の店主は言った。そもそもこのバイクを選んだ理由だって、教習所で使ったものと同じバイクだからというだけのこと。他のバイクに乗る自信がなかったんだ。
真夏の暑さにぼんやりしながら、適当に車体に水をかけ続ける。夕方だというのに、ひどく暑い。夏真っ盛りの夕方なんて、涼しくなることを期待してはいけない。
蛇口の水を止めて、ホースを地面に放り投げる。肩口で汗を拭い、蛇口の横にある古びた籠から拭き取るための布を持ってバイクのところへ戻ろうとしたとき、バイクにしては大人しい排気音が聞こえてきた。振り向くと、ベージュのベスパが僕のバイクの後ろに停まったところだった。ベスパのクラシカルな雰囲気と夕焼けは、絶妙なマッチング。
ライダーの被っている半キャップの両側面には、翼のペイントがしてあった。かわいらしくデフォルメされたものではなく、教会の壁画にいる天使の翼ような、妙なリアルさ。なかなか意味深なヘルメットだ。
彼女は僕の存在に気がつくと、半キャップを被ったままこちらを向いて手を大きく振った。弾ける笑顔が、夕焼けよりも眩しい。
「どっか行くの？」彼女は両手でメガホンを作る。
「行ってきたところだよ」
「えぇ？ そうなの？ なんだ、そっかぁ」
「なんで？」
「乗せてもらおうと思ったのに」
僕は肩をすくめる。彼女はいつも、僕のバイクの後ろに乗りたがる。16の頃に免許を取って、現在僕は19歳。もう免許を取って１年以上が経過しているから、タンデムもできるのだけれど、あまりしたくない。そのために、ベルトのついたノーマルのシートを、ベルトなしのものに交換したんだ。乗せてと言われたときに、掴まるところがないから無理だよと言えるように。
自分以外の人間の命を乗せるには、バイクではあまりに不安定で、命はあまりに重過ぎる。車とはまったく違う乗り物なんだ。
布を持って自分のバイクのもとへ戻り、水滴をふき取るためにしゃがむと、彼女も半キャップを脱いでメットインに入れ、こちらへ歩いてきた。海沿い育ちの女の子らしく、キャミソールにデニムのショートパンツを履いている。小麦色の生脚が実に健康的。靴はサンダルだった。その靴でよくギアチェンジができるなと、つくづく感心する。
「ぐるっと１周でいいの。乗せて」
「今洗ったところなのに」
「乗せてくれたら、わたしが洗うから」まるでわがままな子ども。
立ち上がってタンクを拭いて、サイドカバーの水滴もきれいに拭きとって、ミラーに取り掛かろうとしたとき、ミラー越しに彼女の顔が見えた。期待の眼差しで、僕を見ている。ビー玉みたいな、大きく丸い瞳。ガラスでできたまん丸のビー玉に命が吹き込まれたとしたら、きっとこんなふうに生き生きと輝くのだろう。
僕は再びしゃがんで拭き取りを続けながら、乗る気満々で後ろで待機している彼女を見ないまま言った。
「そのベスパだって、ボア・アップしてあるんだろう？ リミッターまで外しちゃってるし、普通の50ccよりははるかに速いはずなんだけど」
「でも原チャリは原チャリだもん」彼女は頬を膨らませる。「乗せてくれないのぉ？ こんなに毎日お願いしてるのに」
「掴まるところがないんだ。グラブバーもないし、シートは替えちゃったからベルトもないし」
すたすたと大股で歩いてきたと思ったら、彼女は僕の横にしゃがみ込んだ。脚と同じ小麦色の肌と、大きな瞳が目の前に2つ。急接近した顔にどきっとして、僕は右へ一歩、体をずらす。
彼女は人差し指で僕の腰の辺りを指差した。拭き取りの手を止めて顔を下げると、指先は僕のジーンズのベルトを指している。
「ベルトに掴まればいいんだよ」
「うーん･･････」それはそれで、いろいろと問題がある。
なんだかもう、丁寧に拭き取る気分ではなくなってしまって、僕は布を掴んだまま立ち上がった。シートやハンドル、タンクなどはきれいに拭き取れているけれど、細かい部分には水滴が残ったまま。水滴が残っていてもなんてことはない。走っていれば自然に乾く。
シートに寄りかかって、空を見上げた。海のほうから飛んできたかもめが頭上をすいすい滑っていく。夜の香りの漂う東の空へ向かって。きっと、巣に帰るのだろう。
「だめ？」隣に並んだ彼女が顔を覗き込んでくる。「わたし、きっとタンデム上手だよ。無駄な動きはしないし、怖がらないし」
「緊張するなぁ」
なるべく彼女を見ないように視線を空から地上へ移したはずだったのに、僕の目は一瞬、キャミソールの胸元から覗く彼女のやわらかそうな胸を見てしまう。慌てて目を逸らして、どこを見ようかと視線を泳がせていると、隣で彼女がけらけら笑った。
「そんなこと気にしないでよぅ。わたしだって気にしてないもん」
「気にしてたら、そんな恰好しないよね」
「そうそう」
だから乗せて、と上目遣いに彼女は言った。自分が一番かわいく見える角度を知っているのだろう。計算づくの上目遣いだ。そういう女は嫌いだという人もいるけれど、僕は別に嫌いじゃない。人を陥れようとして計算している人なら別だけれど、ちょっとしたお願いのために自分をアピールできる子は、自分のことをよくわかっているということだし、それだけでかわいいと思ってしまう。
僕はいつでも、彼女に押され気味なんだ。
「わかったよ。でも、今日だけだからね」溜め息をつく。
「うそ！ ほんとに？」
「遠くまでは行かないよ」
「どこまで行ってくれる？」
「笹川流れのほう」
「やったぁ！ あそこ、夕日がきれいなんだよね」
「すぐ戻るからね」
「OKだよ。全然問題ないよ」
言い終わらないうちに、彼女は自分のベスパまで駆け寄りメットインを開けた。中から半キャップを取り出し、そそくさとストラップを締める。
僕もポケットに入れっぱなしだったグローブをのろのろと着けて、軒先に置いてきたフルフェイスの黒いヘルメットを取りに行き、緩慢な動作で被る。中はまだ汗で蒸れていた。声が聞こえるように、シールドを開けておく。
「その恰好で乗るの？」彼女の服装を見て、僕は訊く。「キャミソールにショートパンツは、どうかな･･････。転んだら、かなりのダメージだよ」
「そっちだって半袖にデニムじゃない」
「そうだけど」
「大丈夫だよ」彼女はにこりと笑う。「きみは運転、上手だもん」
「なんで言い切れるの？」
「ライディング・フォームがすごくかっこいいから」
思わず吹き出した。そんなこと、考えたこともなかったから。自分の運転が上手いと思ったことも、かっこいいライディング･フォームで乗っているということも。あるのは、確実に安全に走ろうという意識だけ。かっこよく乗ろうなんて気はさらさらない。
「乗り方がかっこいい人は、運転も上手いんだって」
「はいはい」
気に入っているわけではないので、そんなに丁寧に手入れをしなくても良いのだけれど、少しは気にかけてやらないとすぐに調子が悪くなるよと、バイク屋の店主は言った。そもそもこのバイクを選んだ理由だって、教習所で使ったものと同じバイクだからというだけのこと。他のバイクに乗る自信がなかったんだ。
真夏の暑さにぼんやりしながら、適当に車体に水をかけ続ける。夕方だというのに、ひどく暑い。夏真っ盛りの夕方なんて、涼しくなることを期待してはいけない。
蛇口の水を止めて、ホースを地面に放り投げる。肩口で汗を拭い、蛇口の横にある古びた籠から拭き取るための布を持ってバイクのところへ戻ろうとしたとき、バイクにしては大人しい排気音が聞こえてきた。振り向くと、ベージュのベスパが僕のバイクの後ろに停まったところだった。ベスパのクラシカルな雰囲気と夕焼けは、絶妙なマッチング。
ライダーの被っている半キャップの両側面には、翼のペイントがしてあった。かわいらしくデフォルメされたものではなく、教会の壁画にいる天使の翼ような、妙なリアルさ。なかなか意味深なヘルメットだ。
彼女は僕の存在に気がつくと、半キャップを被ったままこちらを向いて手を大きく振った。弾ける笑顔が、夕焼けよりも眩しい。
「どっか行くの？」彼女は両手でメガホンを作る。
「行ってきたところだよ」
「えぇ？ そうなの？ なんだ、そっかぁ」
「なんで？」
「乗せてもらおうと思ったのに」
僕は肩をすくめる。彼女はいつも、僕のバイクの後ろに乗りたがる。16の頃に免許を取って、現在僕は19歳。もう免許を取って１年以上が経過しているから、タンデムもできるのだけれど、あまりしたくない。そのために、ベルトのついたノーマルのシートを、ベルトなしのものに交換したんだ。乗せてと言われたときに、掴まるところがないから無理だよと言えるように。
自分以外の人間の命を乗せるには、バイクではあまりに不安定で、命はあまりに重過ぎる。車とはまったく違う乗り物なんだ。
布を持って自分のバイクのもとへ戻り、水滴をふき取るためにしゃがむと、彼女も半キャップを脱いでメットインに入れ、こちらへ歩いてきた。海沿い育ちの女の子らしく、キャミソールにデニムのショートパンツを履いている。小麦色の生脚が実に健康的。靴はサンダルだった。その靴でよくギアチェンジができるなと、つくづく感心する。
「ぐるっと１周でいいの。乗せて」
「今洗ったところなのに」
「乗せてくれたら、わたしが洗うから」まるでわがままな子ども。
立ち上がってタンクを拭いて、サイドカバーの水滴もきれいに拭きとって、ミラーに取り掛かろうとしたとき、ミラー越しに彼女の顔が見えた。期待の眼差しで、僕を見ている。ビー玉みたいな、大きく丸い瞳。ガラスでできたまん丸のビー玉に命が吹き込まれたとしたら、きっとこんなふうに生き生きと輝くのだろう。
僕は再びしゃがんで拭き取りを続けながら、乗る気満々で後ろで待機している彼女を見ないまま言った。
「そのベスパだって、ボア・アップしてあるんだろう？ リミッターまで外しちゃってるし、普通の50ccよりははるかに速いはずなんだけど」
「でも原チャリは原チャリだもん」彼女は頬を膨らませる。「乗せてくれないのぉ？ こんなに毎日お願いしてるのに」
「掴まるところがないんだ。グラブバーもないし、シートは替えちゃったからベルトもないし」
すたすたと大股で歩いてきたと思ったら、彼女は僕の横にしゃがみ込んだ。脚と同じ小麦色の肌と、大きな瞳が目の前に2つ。急接近した顔にどきっとして、僕は右へ一歩、体をずらす。
彼女は人差し指で僕の腰の辺りを指差した。拭き取りの手を止めて顔を下げると、指先は僕のジーンズのベルトを指している。
「ベルトに掴まればいいんだよ」
「うーん･･････」それはそれで、いろいろと問題がある。
なんだかもう、丁寧に拭き取る気分ではなくなってしまって、僕は布を掴んだまま立ち上がった。シートやハンドル、タンクなどはきれいに拭き取れているけれど、細かい部分には水滴が残ったまま。水滴が残っていてもなんてことはない。走っていれば自然に乾く。
シートに寄りかかって、空を見上げた。海のほうから飛んできたかもめが頭上をすいすい滑っていく。夜の香りの漂う東の空へ向かって。きっと、巣に帰るのだろう。
「だめ？」隣に並んだ彼女が顔を覗き込んでくる。「わたし、きっとタンデム上手だよ。無駄な動きはしないし、怖がらないし」
「緊張するなぁ」
なるべく彼女を見ないように視線を空から地上へ移したはずだったのに、僕の目は一瞬、キャミソールの胸元から覗く彼女のやわらかそうな胸を見てしまう。慌てて目を逸らして、どこを見ようかと視線を泳がせていると、隣で彼女がけらけら笑った。
「そんなこと気にしないでよぅ。わたしだって気にしてないもん」
「気にしてたら、そんな恰好しないよね」
「そうそう」
だから乗せて、と上目遣いに彼女は言った。自分が一番かわいく見える角度を知っているのだろう。計算づくの上目遣いだ。そういう女は嫌いだという人もいるけれど、僕は別に嫌いじゃない。人を陥れようとして計算している人なら別だけれど、ちょっとしたお願いのために自分をアピールできる子は、自分のことをよくわかっているということだし、それだけでかわいいと思ってしまう。
僕はいつでも、彼女に押され気味なんだ。
「わかったよ。でも、今日だけだからね」溜め息をつく。
「うそ！ ほんとに？」
「遠くまでは行かないよ」
「どこまで行ってくれる？」
「笹川流れのほう」
「やったぁ！ あそこ、夕日がきれいなんだよね」
「すぐ戻るからね」
「OKだよ。全然問題ないよ」
言い終わらないうちに、彼女は自分のベスパまで駆け寄りメットインを開けた。中から半キャップを取り出し、そそくさとストラップを締める。
僕もポケットに入れっぱなしだったグローブをのろのろと着けて、軒先に置いてきたフルフェイスの黒いヘルメットを取りに行き、緩慢な動作で被る。中はまだ汗で蒸れていた。声が聞こえるように、シールドを開けておく。
「その恰好で乗るの？」彼女の服装を見て、僕は訊く。「キャミソールにショートパンツは、どうかな･･････。転んだら、かなりのダメージだよ」
「そっちだって半袖にデニムじゃない」
「そうだけど」
「大丈夫だよ」彼女はにこりと笑う。「きみは運転、上手だもん」
「なんで言い切れるの？」
「ライディング・フォームがすごくかっこいいから」
思わず吹き出した。そんなこと、考えたこともなかったから。自分の運転が上手いと思ったことも、かっこいいライディング･フォームで乗っているということも。あるのは、確実に安全に走ろうという意識だけ。かっこよく乗ろうなんて気はさらさらない。
「乗り方がかっこいい人は、運転も上手いんだって」
「はいはい」