ディレイ
漫画喫茶で一泊することにした。管理会社の住所が三鷹市だったからだ。明日、ここから出掛けた方がいい。奈津紀の部屋に泊まる気にはなれなかった。明日の予定は話さないことにした。
コンビニで弁当を買って、それから『プリズム』に寄った。吉祥寺店に来たのは初めてだったが、新宿店と同じ、「Rehearsal Studio PRISM」と書かれたロゴマーク、イメージカラーである青を基調とした内装に、安心感を覚える。
「顔、見に来たよ」
声に、奈津紀は振り向き、そして微笑む。かと思えば、突然視線を外し、考える素振りを見せた後、「それ、他の女の子に絶対言っちゃ駄目だよ」と真剣味を帯びた声で言った。
ロビーには五人の男女がいた。四人組と一人。自分たちの時間が来るのを待っているのか、或いは練習が終わった後の休憩なのか、すっかり寛いでいる様子だった。響介は四人組の隣のテーブル席に腰を落ち着かせた。
「代々木公園のイベント行ってきた」
「震災復興のやつだっけ? どうだった?」
「ナルコとか、MWBとか。あと、センリャクが出てた」
「マジ? その面子で?」
「でも上手くなったよなあ。昔はただのアイドルって感じだったけど」
「えー、文化祭レベルっしょ」
「あれ、プロデュースの仕方が悪いんだよ。もっと上手くやれば売れるのに」
聞いていられない。とかくバンドマンという生き物は知った風な口調で語りたがる。そういう連中に限って下手なのだ。東京に出てきて、「自称ミュージシャン」の多さにも驚かされた。楽器ができることを、すごい、と褒められて育ってきたせいか、自分の立場を誤解しているので、たちが悪い。
スタジオのロビーは世界一居心地の悪い場所かもしれない。響介はたまらず席を立った。
フロントの隣にあるドアを開けて洗面所に入る。手を洗い、その濡れた手で髪型を整えた後、もう一度ドアを開けて、フロントに顔だけを覗かせる。
「ねえ、蛇口がおかしいんだけど」
嘘だ。
眉間に皺を寄せ、小首を傾げた後、奈津紀は洗面所に向かった。奈津紀が洗面所に入ったところで、響介はドアを閉め、唐突に唇を重ねた。
「じゃあね」
もの言いたげな奈津紀を残して、洗面所を、そして『プリズム』を出た。間もなく奈津紀からメールが送られてきた。
『もう! 本当に壊れたと思った! ずるい!』
響介は悪戯っぽい表情を浮かべながら、携帯電話をズボンの左のポケットに戻した。
契約は昨日の面接にも負けず劣らず、実に呆気なく終わった。
社員の女性に「西川ですが」と告げると、「聞いてますよ」と一言だけ言って、契約書類をテーブルの上に置いた。それらに目を通し、署名して押印をする。次いで、担当者が入れ替わり、契約条項の読み上げが行われた。最後に、免許証を提出した。おそらくコピーを取ったのだろう、間もなく返却された。
「こちらが仮契約書と、二○二号室の鍵です。あと、こちら、期限までにお振り込みください」
初期費用の詳細が書かれた紙。驚いたことに、敷金、礼金の欄がなかった。その代わり、クリーニング代という欄があった。三万二千円。その他には、鍵の交換代が一万五千円、一ヶ月分の家賃である五万円、そこから共益費を引いて消費税を加えた仲介手数料が四万八千三百円。合計、十四万五千三百円。一昨年に購入したMacBookより安かった。
「本契約書は後日、郵送しますので」
「はい。ありがとうございました……」
響介は立ち尽くしていた。目の前に聳える三鷹駅が、虚構の存在のように感じられた。受け取った鍵を見つめながら、理解が現実に追いつくのを待った。
響介には祖母からもらった軍資金があった。お金の心配は全て杞憂に終わったのだ。
響介は走り出した。仮契約書に書かれた住所と、携帯電話に表示された地図を見比べながら、『カデンツァ吉祥寺』へと向かった。
息せき切って辿り着いた、白いアパート。『カデンツァ吉祥寺』だ。階段は建物の中心にあった。四つのドアが密集していて、廊下はない。どこに入っても角部屋で、部屋の壁同士が隣り合わない仕組みになっているようだ。
勢いそのままに、階段を駆け上がる。二○二号室のドアの前に立つと、握手するように左手でドアノブを掴んだ。右手で鍵を、そして差し込んだ。
「ただいま」
管理会社が設置した簡易カーテンに窓からの光を遮られた暗い部屋に、響介の声が響いた。靴を脱ぎ、フローリングの感触を確かめるように、ゆっくりと部屋の中央まで行くと、その場に胡座をかいた。呼吸が整った後も、響介はその場を動かなかった。空っぽの部屋に、希望が充満していた。
(五)
荘太が響介の部屋を訪ねたのは、それから五日後、四月に入ってすぐのことだった。
「御前……。いい、って言うまで来るなって言ったはずだ」
「本当に西川さんは途中経過を人に見られるのが嫌なんだね。職業病だよ、それ」
部屋がまだ片付いていないことは、響介がマスクをしていることでわかった。彼は確か埃が苦手だ。
「手伝うよ。──ああ、大丈夫。西川さんの指示通り動くから。勝手なことはしないから安心してよ」
「お前もほんと世話好きだね」
響介からの指示は容赦なかった。何かを配置しようものなら、メジャーを持ってやって来て、そこと平行になっていない、ここと直角になるようにしてくれ、一ミリメートルずれている、と駄目出しの応酬だった。響介はCDのジャケット、ウェブサイトなども自ら制作している。職業病も末期だな、と荘太は思った。
それから荘太は、段ボール箱から物を取り出し、響介の手元に置く、というアシストに徹底することにした。黒い筒を手渡しながら尋ねた。
「卒業証書?」
「ああ、ついでに開けて出してくれ」
ぽん、という音と共に、筒の蓋が外れる。中から慎重に紙を取り出し、そして広げた。
賞状。
「第一回全国高校生軽音楽選手権大会 審査員特別賞」
全国高校生軽音楽選手権大会。聞いたことがある。二年に一度開催される、高校生を対象とした全国規模の音楽コンテストだ。グランプリにはメジャーデビューが約束されている。昨年、震災の後に行われた第四回大会で、被災地のバンドがグランプリを取って話題になった。
「すごいね。これは飾らないとね」
「戒めだよ」
「えっ」
「審査員特別賞ということは、グランプリではありませんよ、という証拠だ」
「だけど……」
「全く嬉しくないと言えば、嘘になる。こんな音楽やってて賞状もらえるなんて思ってなかったから。ただ、飾る、というのとはちょっと違うんだ」
俺は負けたんだ。そう言って、賞状を荘太から取り上げた。その勢いのある動作に、悔しさが伺い知れる。
自分はどうだろう、と荘太は考える。もし漫画で何がしかの賞を取ったなら、それがプロの世界に繋がらないものだとしても、きっと喜ぶだろう。人に認められるというのは偉大なことだ。だけど、それでは駄目なのだ。自分はまだ、そこに悔しさを見出すことすらできない地点にいるのだと自覚する。
額縁に入れられた賞状を見ながら、頑張ろう、と改めて決意した。