ディレイ
寛げるスペースができた頃、部屋のチャイムが鳴った。響介はドアスコープを覗いて、それからドアを開けた。奈津紀が「あっ」と言いながら、部屋に入ってくる。
「御前くんも来てたんだ」
「勝手に来たんだよ」
そう言って、響介はしかめっ面を荘太に向けた。
「なんだよ、西川さん。僕は駄目で、上村さんはいいの? 嫉妬するんだけど」
「奈津紀は、半分俺だから」
はいはい、そうですか、と心の中で言って、近くにあった小説に手を伸ばす。
「トモちゃんは、いないんだね」
「ああ、まだ挨拶もできていないんだよ。いつもいなくてさ。ドアの音で帰ってきたのはわかるんだけど、夜中の一時とか二時なんだよね。昨日、郵便受けにメモは入れておいたんだけど。『ここで暮らすことに決まったよ、ありがとう』って」
「忙しいんだね」
「俺、ちょっとコンビニ行ってくるわ」
急に話が飛び、荘太は手にしていた本を閉じた。
「なに? 西川さん。僕、買ってくるよ」
響介と奈津紀が残る方が自然だと思い、買って出た。しかし響介は「お前のギャランティを買いに行くんだよ」と言い残し、部屋を出ていってしまった。
奈津紀と二人きりになる。信頼されているんだな、と嬉しくなる。
「西川さんは本当に上村さんのことが好きなんだね」
「えっ」
思わぬ話の切り出し方に、奈津紀は面喰らったようだった。
「だって、病気が治っていないのに東京に戻ってきたんだよ? 状態も決していいとは言えないよね。少し先走った行動のように見える。それって上村さんが東京にいるからでしょ」
「ああ、それは違うよ」
「えっ」
今度は荘太が驚く番だった。否定はされても、断言されるとは思っていなかった。
「……だったら、どうして?」
奈津紀は「あれ」と言って、床に置かれたMacBookを指差した。
「和歌山に帰ってから、東京のファンの子が毎日のようにメールをくれたんだって。ティーモっていう子。その子が熱心にキョンくんを励ましたみたいなんだ。キョンくんは最初、東京に戻るつもりはなかったらしいんだけど、メールを受け取っていくうちに、東京に戻らないといけないって思ったんだって。人を待たせるのが嫌いなんだ、って言ってた」
「そうなんだ」
確かに、よく考えてみれば、東京に復帰するテストで彼らは出会ったんだ。ということは、そのティーモという人は恋のキューピットともいえる。ファインプレイだ。尤も、本人はそこまで考えていなかっただろうけど。
「そのティーモって人に教えてあげたいね」
「なにを?」
「西川さんの人生が上々だってこと」
「そうだね。でも私のことは、その子にとっていい話じゃないよね」
「どうして?」
「多分、女性だから」
ああ、と頷く。荘太は玄関の方を見ながら、羨ましいな、と心の中で呟いた。
(六)
さあ、どうする。
手に持った買い物かごと、二、三人の列ができている三つのレジ。視線を往復させながら、何度も自問自答する。
予期不安だった。
レジに行こうと足を踏み出した瞬間、パニック発作が起こったのだ。店員がレジを打っている間は逃げられない、という意識があった。
吐き気がひどい。ここは人が多すぎる。
鞄の中にはミネラルウォーターが入っている。けれど店内で薬を飲むことはできない。その動作は飲食するのと変わらないのだ。
逃げ出したい気持ちに駆られたが、容量の半分を商品で埋めた買い物かごを置いて店を出ることなんてできない。店員に迷惑が掛かってしまう。
そうしてレジから二メートル程離れた地点で動けなくなってしまったのだ。
けれど動かないわけにもいかない。こんな所にずっと立っていると不審者だと思われてしまう。ならば、どう動くか。
根性を、商品を一つ一つ元の棚に戻すことに使うなら、レジを通過する方に使った方がいい。
意を決して列に加わる。左手の甲を口に当てながら、前に並んでいる二人の客の買い物かごを覗き見た。時間が掛かりそうだな、と焦りに拍車が掛かる。
早くして!
周囲の音は全て消えていた。今目の前で商品の代金を読み上げている店員の声も聞こえない。集中力は全て祈りに注がれた。
店を出ると、駐車場に駆け込む。車と車の間のスペースに滑り込み、そしてしゃがみ込んだ。
ふと妙な気がして、顔を上げる。二台の車に挟まれている景色は狭い。しばらく凝視していると、人の下半身が右から左へと流れた。それを見て安堵する。次いで、もう来るな、という恐怖感が湧いてくる。ああ、と俯く。
かくれんぼだ。
幼い頃にした遊び。あの頃とはまるで違う体格で、同じ状況にあると気付くと、ひどく情けない気分になった。
なにしてるんだろう……。
そう思いながらも、継続するより他はなかった。周囲の人間が全員鬼の、大人のかくれんぼを。