小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

ディレイ

INDEX|8ページ/39ページ|

次のページ前のページ
 

「ここに来て、英語のタイトルなんて、一貫性がありません。中途半端なバンドにはなりたくないんです」
「星野さんだって、我々が漢字にこだわっているのを知っているはずだ。その上で、英語のタイトルにした。智子、この意味わかるだろう?」
「はい。星野さんは私たちのことをよく考えてくれています。だからこそ、きちんと伝えたいんです」
「そんなこと言える立場か。これが売れなきゃ、本当に撤退することになるぞ」
 それは嫌だ。けれどバンドの方向性を変えるのも嫌だ。
「メンバーと話してみます」
「智子、よく考えろよ。バンドはもうお前たちだけのものじゃないんだ」

『久我山の次は、終点、吉祥寺』
 車内アナウンスに、はっと顔を上げる。電車のドアの窓に映った自分と目が合った。沈んだ顔。智子は唇の端を意図的に持ち上げた。
 そういえば、七年前のあの日も、そんな風だった。
 シングルの発売が決まったのは喜ばしいことだ。だけど……。
 バンドのメンバーにメールを送ろうと、鞄からスマートフォンを取り出す。こんなに重かったかな、と思う。右手の人差し指をディスプレイに当てようとしたその時、メールが来た。
 西川響介……。
『北口の喫煙所にいるから』
 智子はもう一度、ドアの窓で自分の顔を確認した。

 電車を降りると、智子は走った。遅刻したわけでもなかったし、響介を待たせていることに焦ったわけでもない。ただ、行き場のない気持ちを振り切りたかった。
 喫煙所に着くと、響介に向かって大きく手を振る。慌てて煙草を灰皿に投じた響介が小走りに近付いてくる。その間に一つ小さく深呼吸する。
「ごめん、待った?」
「待つのは嫌いじゃないんだ」
「じゃあ、行こうか」
 歩きながら、説明する。
「あそこの通りに喫茶店があって、そこが面接所。六時になったらオーナーが来るから。オーナーの名前は五十嵐さんで、五十を過ぎてるけど、見た目は四十って感じかな。細身で長身だからすぐにわかると思う」
「智子ちゃん、同席してくれないの?」
「私は六時からバイトだから、響介を喫茶店までエスコートして、それでさよなら」
「そっか」
「ほら、あそこ。じゃあ、上手くやってね」
 くるりと踵を返し、歩き出した智子を、響介が「ねえ」と呼び止めた。
「どうしてそんなによくしてくれるの?」
 それは、と言いながら、振り返る。
「奈津紀の彼氏だからに決まってるじゃない」
「仲いいんだな、ほんとに。わざわざありがとう」
「いいえ」
 唇の端を持ち上げる。やはり意図的に。

     (四)

 運ばれてきたホットコーヒーをじっと眺める。響介はコーヒーが飲めなかった。しかし、紅茶はなにか違う気がするし、ジュースの類いなど論外だ。目の前に置いておいて最も自然なのはコーヒーだろう、と仕方なく注文したのだった。
 灰皿に目を見やる。煙草が吸いたい。喫煙所で吸う煙草は吸った気にならない。夏の夜の電灯に集まる虫になった気分で、まるで楽しめない。あれはニコチンを摂取する作業でしかない。ここで吸う煙草は、さぞかしおいしいだろうな。そんなことを考えながら、指先で灰皿を視界の外へと追いやる。
 それにしてもいい話だ、と響介は思う。人に頼ることを嫌い、自分一人で成し遂げることに快感を見出す性格もあって、『不思議草』で話を聞いた時は手放しで喜ぶことができなかった。しかし、よく考えてみれば、所得がないのだ。『トミー』を辞めたのは昨年の二月。二月上旬は毎回のように早退していたし、中旬になる頃には出勤できなくなっていた。年収は十万円に満たない。その上、現在、住所不定、無職なのだ。そんな犯罪者のような肩書きの人間に部屋を貸してあげるという方がおかしな話で、部屋探しは鬼門と言えた。
 ──上手くやってね。
 智子の声を思い出す。言われるまでもない。この話を逃す手はない。
 午後五時五十五分。背後で喫茶店のドアが開く気配がした。見ると、全身黒ずくめの男が立っている。細身で長身、年齢は四十代とも五十代とも取れる。オーナーだ。
 響介は立ち上がった。男がそれに気付き、近付いてくる。威圧感とは違う、なにか異様な雰囲気にたじろいでいると、男は言った。
「西川くん、かな」
「はい」
「どうも。『カデンツァ吉祥寺』オーナーの五十嵐です」
「西川響介です。よろしくお願いします」
「まあ、座って」
「失礼します」
 アパート名を聞いて、なるほど、と思う。「カデンツァ」とは、楽曲の終末部分の即興演奏を指す音楽用語だ。ジャズは勿論、ロックにも用いられる。楽譜に記されている場合は、自由にやれよ、という意味だ。無論、楽曲として一つにまとまっている必要がある。
 免許証の住所の欄に「カデンツァ」という言葉が入ることを想像すると、そこに住みたい、という気持ちが強くなった。
 五十嵐はホットコーヒーを注文した。心の中で、よしよし、と呟く。やがて運ばれてきたコーヒーを一口飲むと、「まずい」と言って、それから切り出した。
「西川くんは、プロ?」
「いえ、インディーズです。インディーズといっても、事務所には所属しておらず、一人でマネジメントしています。関西ローカルなんですが、企業CMの音楽を何本か手掛けていますので、プロと言えるかもしれませんが、メジャーデビューはしていません」
「なるほど」
 言いながら、五十嵐がコーヒーを飲む。響介は飲むふりをしようかと思案したが、においも苦手だったのでやめておいた。それで気分が悪くなって、パニック発作を誘発させるようなことがあってはいけない。
「関西で活動を?」
「はい。地元の和歌山を拠点に」
「メジャーデビューするために東京に?」
「上京したのは、音楽を楽しむためです」
「というのは?」
「関西では一通りやったと思ってるんです。それなりに売れて、ツアーも成功しました。次のステップに行くためには、東京に行く必要があったんです」
 嘘ではなかった。けれど、ずるい言い方だな、と思う。自分は逃げたのだ。関西から。
「なるほど」
 五十嵐の口調は相変わらず淡々としたものだった。
 それにしても、この男、一切笑わない。感情が読み取れないので、妙に緊張する。いつかどこかで味わったことのある感覚。そんなことを考えながら、五十嵐を見ていた。まずい、と言いながらも、コーヒーを飲み終えたようだった。
「家賃は払えるね?」
「はい。アルバイトをするので、大丈夫です」
「私から管理会社に連絡を入れておくから、近いうちに行ってもらえるかな。場所は──」
 慌てて携帯電話を取り出し、ノートの機能を使って、管理会社の住所と名前のメモを取る。
「では、よろしく」
 五十嵐は伝票を手に取ると、席を立った。響介も立ち上がる。そして呆然と、五十嵐の動向を目で追った。五十嵐はそのまま喫茶店を出ていった。
 上手くやれたのだろうか。安堵するタイミングを取り上げられたまま、どうやら面接は終了したらしい。
 ズボンの右のポケットからポールモールとライターを取り出す。ともあれ、気分を変えたかった。
作品名:ディレイ 作家名:宇城和孝