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     (一)

 上村奈津紀は混乱した。目が覚めると、部屋の天井が変わっていたからだ。そこが池袋のウィークリーマンションであることを認識するのに、やや時間を要した。
 喉が痛い。
 体を横に捻り、ベッドの上から小型の冷蔵庫に手を伸ばす。コンビニで買ったミルクティを、そして取り出した。
 お酒という飲み物は不思議だな、と思う。水と違い、いくらでも飲める。それなのに喉が渇く。
 ペットボトルの中身は半分以上残っていたが、一気に飲み干す。
 それに、と振り返って、響介の寝顔を覗き見る。心理状態で味が変わるというところが一番おもしろい。昨日のお酒は本当においしかった。
「キョンくん」
 おはよう。と言いたかったのだが、響介は、んー、と声を出しただけで、目を開けなかった。まあ、いいか、と奈津紀は眼を細める。響介の寝顔を眺めているのも悪くない。それだけで幸せな気分になった。このままずっと見ていたい、と思ったのだが、そうも言っていられなかった。アルバイトに行かなければならない。後ろ髪を引かれる想いで、ベッドから降り、身支度を始める。
 出掛ける準備が整うと、ベッドに戻った。今度は返事を期待せずに言う。
「キョンくん、バイト行ってくるね」
 やはり、んー、と声がした。

     (二)

 奈津紀の声を聞いた気がする。自分は奈津紀に対してこんなにもリラックスしている、という都合のいい解釈をして、響介は満足げにベッドを降りた。時間を確認するため、携帯電話を手に取った。
『新着メッセージがあります 一件』
 こんな早い時間に……、いや、もう昼なのかもしれない。そんなことを考えながら、メールを開く。智子からだった。
『オーナーが会いたいって! 都合のいい日教えて!』
 恐るべし、椿山智子。彼女の生きている時間と自分のそれでは流れの速さが違うらしい、と響介は唸った。
 都合のいい日。考えるまでもない。予定のある日がないのだ。『いつでもいいよ』と、メールを返す。
 正午を過ぎていた。薬の入った袋を手に取る。「朝食後に服用」と書かれていることに気付き、叱られたような気分になりながら、奈津紀の真似をして買ったミルクティで薬を胃の中に流し込む。
 智子のアパートの話を聞いて、すっかり気が抜けているようだ。
 そう思った矢先だった。響介は体を強張らせた。携帯電話が鳴ったのだ。メールの着信音。差出人は、もうわかっていた。
『五時半に吉祥寺に来て!』

 響介は午後三時になると出発した。昨夜はタクシーで移動したので正確な時間はわからないが、池袋から吉祥寺まで電車で半時間くらいだろう。けれど自分に限っては、半時間で行くのは無理だ。一時間は余分に見ておこうと思った。それでもまだ一時間の余裕を設けたのは、やりたいことを一つ思い付いたからだった。
 池袋から、山手線で新宿へ。間には三つの駅がある。一気に行けるだろうか。一抹の不安を抱えながら、電車に乗り込む。車両の端の席が空いているのを見つけると、そこに座った。
 優先座席。
 初めて座ったが、こんなにも落ち着かないものか、とそわそわする。目の前には、人のシルエットが四つ並んだ絵。おそらく頭上にも同じものがあるだろう。自分はどう見ても、赤子を抱えていないし、妊婦でもないし、老人でもないし、怪我人でもない。だけどこの席が必要なんだ、と目を閉じる。
 電車の車内はパニック発作が最も起こり易い場所だと言われている。逃げ場がないからだ。しかし響介は思う。ないことはない、と。車両と車両の間のスペースに入り、両側の扉を閉めて屈めば、そこは死角だ。最悪、そこに逃げ込めばいい。そしてその逃げ場がすぐ近くにある、と思っていることが重要で、だからこの席が必要なのだ。
 ズボンの左のポケットには、携帯電話の他に市販の吐き気止めとコンビニの袋が入っている。それらを握り締めながら電車に揺られること、八分。新宿駅に到着した。掌が汗で濡れている。吐き気はやはり段々と強くなり、逃げ出すように電車を降りた。
 しかし、電車を降りても吐き気が治まることはなかった。ここは新宿駅なのだ。視界に入る人の数が一気に増す。誰かに胃を、ぐっ、と掴まれたような感覚がして、うっ、と体が硬直する。その手を振り払うように大きく咳払いをした。呼吸が荒くなる。吐いてしまう。どうしよう、どうしよう、どうしよう。
 強い吐き気、それに伴う倦怠感に加え、手足の痺れ、震えがやってくる。響介は完全にパニック発作の中にあった。汗まみれの左手で吐き気止めを取り出し、震える右手で口の中に入れる。水が必要ない薬。噛み砕いて飲み込むが、こうなってしまってはもう効果がない。支配しているのは脳なのだ。
 新宿駅、ここは地獄だ、と思い知る。恐ろしく広く、恐ろしく人が多い。それこそ、逃げ場がない。
 もう駄目だ、と思ったその時だった。響介は視界の隅にそれを見つけた。
 証明写真。
 できるだけ早足で駆け寄り、中腰になって中に飛び込むと、カーテンを閉めた。椅子に腰掛け、背を凭せると、深いため息を吐く。
 助かった……。
 どうして改札を抜けた駅の構内に証明写真機があるのかわからないが、設置してくれた見知らぬ誰かに感謝した。
 十五分程そこにいた。本当はもう少し休んでいたかったが、少し落ち着くと、証明写真機の中にずっといるというのも、それはそれでプレッシャーになるということに気付いて、外に出た。これから電車に乗ろうとしている、或いは降りて間もないタイミングで証明写真を撮る人などそうそういないとも思ったが、万が一ということもある。
 中央線のホームに着くと、再び駅の数を数える。しかし、はっきりわからなかった。それが余計な不安を生じさせることが腹立たしかった。
 電車のドアが閉まると、やはり吐き気が襲ってくる。響介は少し早めに動いた。二つ目の駅、高円寺で降りて、ホームのベンチで休憩した。
 二駅ずつ行こう。
 それ程つらくはなかったが、四つ目の駅、荻窪でも同じようにした。二駅ずつにすると決めたことで、少し楽になったのかもしれない。
 そうして響介は吉祥寺に辿り着いた。時刻は四時半。予定通りと言えた。
 サンロードの手前からダイヤ街へ。『不思議草』の近くに漫画喫茶があったのを覚えている。そこへ入った。
 ポールモールの箱から煙草を一本取り出すと、火を点けた。次いで、慣れないOSのパソコンでインターネットに接続し、検索をかける。キーワードは、「スルピリド」「副作用」。
 ある一文を見つけて、ゆっくりとカーソルでなぞる。
「男性の場合、性欲減退や射精困難を招く場合がある」
 吐いた煙が、もやもやと宙を漂った。

     (三)

 灰皿に、また一本、吸い殻が放り込まれる。いよいよ灰皿の底は見えなくなった。
 事務所の空気は二分化していた。それが智子の苛立ちを増長させる。
「どうしてなんですか。言うだけ言ってみてください」
 テーブルを挟んで向こう側の男に言葉を投げる。男は、やれやれ、という表情を智子に向けた。
「そんなことはできない」
 繰り返されるやり取り。もう何度目かわからなかった。
作品名:ディレイ 作家名:宇城和孝