小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

ディレイ

INDEX|26ページ/39ページ|

次のページ前のページ
 

 大丈夫です、と言いたかった。けれど、やっぱり駄目でした、という結果になるのが怖かった。すいません、ともう一度謝る。店長に電話を、そして掛けた。
 それから十五分後、微かに吐き気が和らいだ。機と見るや、店を飛び出した。体力を一気に奪われ、駐車場の車輪止めに腰を下ろす。果たして帰れるのだろうか。自宅までの距離がひどく遠く感じる。車が一台、駐車場に入ってきた。舌打ちしたい気持ちで、響介は腰を上げた。けれど勢いがついた。ほんの少しの衝撃や集中力の緩みで、嘔吐いてしまいそうになるので、まるで氷の上を歩くような慎重な足取りで、帰り道を行く。
 途中、やや大きな交差点がある。響介は歩行者信号の色が赤、青、赤、青と繰り返し変わるのを見ていた。
 横断歩道が渡れない。
 横断歩道の両サイド、車が向かい合っている。視線に挟まれるのが怖い。もし横断歩道の途中で動けなくなったら……、そう考えると一歩が踏み出せない。
 そこでも十五分程立ち往生した。早足で渡り切って、両膝に手をついた。もう少しだ。再びゆっくりと歩き出す。
『カデンツァ吉祥寺』が見えると、ふっと気分が楽になったのを感じた。ドアを開けて部屋に入ると、一連の苦労が嘘のように体が正常になる。すると手島と店長に申し訳ない気持ちが溢れてきた。不甲斐なさが、響介を絨毯の上に大の字にする。
 だけどよかった。今日は月に一度の通院の日だ。これを逃すと、予約を取り直し、病院に行くのは何日か後になってしまう。スルピリドとロフラゼプ酸エチルを失ってはおしまいだ。

 午後六時の予約。時間通りに行ったが、病院のロビーには四人の患者が診察待ちをしていた。勘弁してよ、と響介は思う。心療内科は狭い。人口密度が高い。ただじっと待つのはパニック発作を待つようなものだ。響介はソファに座ると、そそくさと鞄から読みかけの小説を取り出した。人がいる場所で、人がいない世界に行く。感受性が豊かなのはハイリスク・ハイリターンだ。
「西川さん、どうぞ」
 声を受けて、診察室に入る。
「失礼します」
「こんにちは。その後、どうですか?」
 背広をびしっと着た先生がパソコンのキーボードに手を置いたまま、顔だけをこちらに向けて微笑む。響介は椅子に座り、顔を上げないまま答えた。
「よくないですね」
 そう、よくないのだ。ライブまで、あと二週間。ここに来て──。
「今日、職場で発作が出ました。回復せずに、そのまま早退しました」
「あ、そう……」
 先生は眉毛を八の字にしてそう言うと、パソコンに向き直り、キーボードを、かたかた、と打ち始めた。
「職場にストレスはありますか?」
 はあ? と唇の裏側で言う。ストレスのない職場があれば是非行ってみたいものですね、と響介は思う。果たしてなんと答えるべきか。
「──特には」
「そうですか」
 嬉しそうな声音で先生が言う。響介は静かに頭を振り動かした。
「最近は調子がよかったんですけど。たまたま今日調子悪いだけならいいんですが。ちょっと大事な時期なので」
「そうですねえ」
「まあ、様子見るしかないですよね」
 どうせこの人はなにもできない。自分から話を終わらせる。けれど意に反して先生が「それでは」と切り出した。
「頓服でドンペリドンを出しておきますね。吐き気止めです」
 響介は顔を上げた。処方薬にも吐き気止めがあるのか。それは心強い、と思った次の瞬間、けれど意味はあるのか? と不安になる。パニック発作の最中は水を飲むのもつらい。それに錠剤は効くまでに時間が掛かる。そんなことを考えていると、先生が言葉を継いだ。
「発作が出そうだな、と不安に思った時に飲んでください。それから発作が出ては困るという時にも。──とりあえず一週間分出しておきますね」
 なるほど。パニック発作が起こる前に飲むのか。
 発作が出ては困るという時。
 効果の程はまだわからないが、ライブ当日のことを考えると安心だった。映画『レインマン』を思い出す。ダスティン・ホフマン演じる自閉症のレイモンドは言っていた。
『メイプルシロップはパンケーキより先にテーブルに出ていなければならない』
 吐き気止めを持っている、ということが重要なのだ。吐き気止めはズボンの右のポケットに入っていなければならない。
「あとはいつも通り、スルピリドとロフラゼプ酸エチルを一ヶ月分ですね。──他に、気になることはありますか?」
 パソコンの画面を見つめたまま、先生が尋ねる。
「いえ、ありません」
「そうですか」
 先程と全く同じ嬉しそうな声音。機械的で、何度聞いても嫌悪感が薄れない相槌。
「ではまた来月来てくださいね。お大事に」
 ありがとうございます、と言って診察室を出る。ロビーに戻ると、もぬけの殻だった。勘弁してよ、と響介は思う。

     (四)

「解散?」
 智子の声が事務所に響き渡る。男は小さく二度頷いた。
「彩が脱退したんだ」
「えっ」
 発音できたのかどうか定かではなかった。どくん、と鼓動が大きく跳ね上がる。男は煙草を一本取り出したが、すぐに箱に戻した。
「彩はボーカル──、バンドの顔だ。彼女の脱退を受けて、話し合いの結果、解散という結論に至った」
 そんな……。
 今度は完全に声にならなかった。全身から血の気が引いて、声を出すのも億劫だ。
 高校生の時、同級生の彩と知穂と世里香と四人で作ったバンドが、会社から解散を告げられる。どうしてこんなことになってしまったのか。どうして彩はメンバーに話さなかったのか。
「どうして……」
 やっとのことで、それだけ口にする。男は言うべきか言わざるべきかという逡巡を見せた後、「まあ、いいだろう」と憂いの表情を見せた。
「彩はな、結婚するんだ。お腹に赤ちゃんがいる」
 智子は目を大きく、それこそ大きく見開いた。そんな大事なことを黙って……。
 そういえば、シングル曲のタイトルが英語である件についてメンバーと話し合った時、彩だけは議論の積極性に欠けていた。あの時点で既に妊娠しており、脱退を決めていたのだ。
「近くウェブサイトで発表して、それでおしまいだ」
「そう、ですか」
 彩がそういう手段を取ったということはそういうことなのだろう。彼女自身が解散を望んだのだ。自分のポジション、バンドの状況、そういったものを理解した上で、確実に解散する方法を選んだのだ。
 裏切り者!
 智子は両目を固く瞑った。その健闘空しく、涙は頬を伝い、床に達する。
「智子、彩には彩の人生がある」
 私にも私の人生がある! こんなところでやめちゃ駄目なんだ。人の人生をねじ曲げておいて、自分だけ幸せになるなんて、自分勝手だ。
 智子は男を睨み付けた。男は、面倒だな、とでもいうように顔をしかめて、それから続けた。
「どのみち、長くはなかったよ。シングルも売れなかった。──よかったんじゃないか。こういう形で終われて」
 なるほど、会社としては都合のいい話というわけだ。智子は両手でそそくさと涙を拭った。こんな人たちのために涙を流すなんて馬鹿らしい。一呼吸置くと、「わかりました」と落ち着いた声音で言った。
「最後に一つだけお願いを聞いてもらえませんか」
作品名:ディレイ 作家名:宇城和孝