ディレイ
外国人のようなアッシュカラーのウェーブヘア、濃く引かれたアイライン、赤みの強い口紅。なるほど、お姉さんだ。奈津紀は可愛い、智子は綺麗、という形容がしっくりくる。じっくり見なくてもわかっていたことだが、智子は美人だ。
芸能人。
連想されたその言葉を、苦笑で掻き消す。彼女は正真正銘の芸能人だ。
未だに帰省すると、地元の友達に訊かれることがある。
『芸能人に会った?』
自宅にもお邪魔したし、ファミレスで食事もしたよ。そう言うと、彼らはどんな顔をするだろう。
智子が原稿から手を離した。顔を上げて「あー、おもしろかった」と少女のような感想を口にした。荘太は目を瞬いた。
「おもしろかった、ですか?」
「夕暮れの空みたい」
夕暮れの空、と鸚鵡返しに言う。
「優しくて、癒される。『頑張れ』じゃなくて『頑張ったね』って言われた気分。ただ──」
荘太は小さく頷き、智子の話に耳を傾けた。
「荘太は夕暮れの空を手に入れたんだよね。私はそれを知ってる。だけど荘太のことを知らない人がこれを読んだら、ただの景色になっちゃうよ。この漫画には、夕暮れの空しか描かれていない。それがなんだか悔しい」
「編集さんにはこう言われました。『負のエピソードが一つもないね』って」
「昼間の喧噪があって初めて夕暮れの空は意味を持つでしょう? その部分は描かないの? それとも──」
描けないの? 言いづらそうに、智子が口にする。
「いえ、実は今修正してるところなんですよ。まりやのキャラクター設定を変えました」
明るい声を意識して言う。
「へえ。どんな風に?」
「まりやは嘘を吐く子になりました」
そこで会話が途切れた。この話題はこれで終わりかな、と思ったところで、「そうなんだ」と智子が口を開いた。
「あんな可愛い顔して実は嘘吐きなんて、きついね」
笑顔でそう言うが、頬の動きがぎこちない。そんなに衝撃的な変更だろうか、と荘太は意外に思った。嘘吐きにするくらいでは甘いのではないか、という不安があったからだ。荘太は智子と対照的に、すっきりした表情を浮かべた。
「だけど、すごくいい。そうやって修正してプロの世界に向かっていくのは、すごくいいよ」
すごくいい。ひどく悲しい声音だった。
(三)
御茶ノ水に行こう、と響介が言い出したのは四月も終わろうとしている頃だった。
来月のシフトの休日希望日を提出したばっかりだよ、とごねてはみたものの、翌日出勤した奈津紀は店長に休日希望日の変更を希望した。
「彼氏?」
「あっ、はい。すいません……」
「正直ですね、上村さんは」
店長は笑いながら言って、パソコンの画面に五月のシフト表を表示させた。
「まだプリントアウトしていないので大丈夫ですよ。どこを変えますか?」
休日希望日を五月十六日から五月三日に変更したい旨を伝える。響介の次の休日だ。
「十六日も休みのままでもいいですよ?」
「──いえ、大丈夫です」
五月三日は晴れた。前日は大雨だったので、洗濯されたような吉祥寺の街を、清々しい気持ちで奈津紀は歩いた。
水たまりに映り込んだ青い空の上を飛ぶ。
待ち合わせをするのは響介が東京に復帰した日以来だ。気持ちが高ぶるが、それと同時に、不安も引っ張り上げられる。
電車、大丈夫かな……。
吉祥寺駅に着くと、改札前の柱に背を凭せ掛けた。響介にメールをしようと、鞄からスマートフォンを取り出す。
その時だった。突然背後に人の気配を感じた。
「お姉さん! なにしてるの? 遊び行こうよ」
妙に軽い、若い男の声。
嘘でしょ……。
奈津紀は苦虫を噛み潰したような顔で振り返った。
(四)
「お姉さん! なにしてるの? 遊び行こうよ」
振り返った奈津紀の顔を見て、響介は大笑いした。
「…………」
奈津紀は響介を静かに睨んだ。
「ナンパされるのが、そんなに迷惑?」
笑いが止まらない。ややあってから、「だって」と奈津紀が唇を尖らせた。
「声も、やり方も、チャラかったから」
「そうかそうか。お父さんは安心だよ」
呼吸を整えている響介を置いて、奈津紀はそそくさと改札の方へ歩き出す。
「ちょっと待って。切符買うから」
「えっ、Suica持ってないの?」
「切符が好きなんだ」
自動券売機の前に着くと、ズボンの後ろのポケットから財布を取り出す。運賃は事前にインターネットで調べてある。二百九十円を投じて、二百九十のボタンを押す。自動券売機が舌を見せるように切符を出す。かるたの素早さで手に取った。取り忘れ防止の警告音を出させないためだ。あの、ピーピー、という電子音はとても不快だ。
奈津紀の元に戻ると、「見せて」と右手を差し出してきた。切符はもう彼女たちの間では珍しいものになってしまったのだろうか。切符を手渡す。
「あっ。これ、両想い切符だよ」
「なにそれ」
「ほら、ここに四桁の数字があるでしょ? 両端の数字がぞろ目だと両想い切符なの。挟まれた二桁の数字が確率」
へえ、と切符に顔を寄せる。五一二五。十二パーセント。
「微妙じゃない?」
「微妙だね」
奈津紀はけれど嬉しそうに笑った。
改札を抜けて、奥へと歩を進める。エスカレーターに、奈津紀を先に乗せた。ゆっくりと上昇する。
「見て、キョンくん。背が同じになった」
一段上にいる奈津紀の顔を見る。見つめ合う視線が地面と平行になった。
「ほんとだ」
中央線のホームは混んでいた。総武線のホームをちらと見る。閑散としている。列に加わると、気が重くなった。
程なくして、電車がホームへやってくる。目を左から右、左から右と小刻みに繰り返し、走っている電車の車内の様子を窺う。立っている人がちらほらと見えた。電車が停車すると、息を吸って吐き出した。覚悟を決めて乗り込む。ドア付近に落ち着き、つり革を掴む。その響介のジャケットの裾を、奈津紀は掴む。自然と口元が緩んだ。
高円寺駅で停車した時、奈津紀が言った。
「キョンくん、降りよう」
手を引かれるままに電車を降りる。響介は車内の自分の様子を思い返す。しんどそうな仕草を見せただろうか。いや、そんなはずはない。手も震えていないし、咳もしなかった。しかし気分が悪いのは事実だった。降りたいな、と思ったその矢先の出来事だった。
「休みながら行こう? 時間もたっぷりあるし」
休みながら電車に乗ったことがある。けれどその話は奈津紀にしていない。「すごいな」と口から漏れた。
「奈津紀は、天使だね」
響介がベンチに腰掛ける。
「えっ」
奈津紀が響介の隣に座る。
「俺を導いてくれる天使。──ほら、グラミー賞のスピーチなんかで外国人が言ってるじゃん。『まずは神に感謝します。そして導いてくれた天使に感謝します』って。天使って、そういうもんでしょ?」
「私はなにもできない、ただの二十歳の女だよ」
「実は結構しんどかったんだよ。そうしたら奈津紀が電車から降ろしてくれた」
奈津紀は視線を落とし、「違う」とかぶりを振った。
「一人だと自由に降りられるのに、私がいるからキョンくんはしんどい想いをした」
「奈津紀がいなかったら、俺は今ここにいない。御茶ノ水には向かっていないんだ」
「どういうこと?」