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     (一)

 西川響介の足取りは重かった。研修期間は勤務時間が三時間だったが、それが終わり、今日から五時間半働くことになる。パニック発作が起きなければいいが……、と不安になりながら、厨房のドアを開けて店内に入る。
「おはようございます」
「おはよう、響介。早いな」
 そうか、と気付く。今日は手島と二人だ。響介は自身のウェブサイトでパニック障害であることを公表している。この人は知っているはずだ。
 少し気が楽になり、「早かったですか?」と笑顔で言う。
「いいことだ。岡添の爺さんは三分の遅刻も許さないからな。いい年してキレるから。他人を変えるより自分を変える方が手っ取り早いのにねえ。無駄なストレスを溜めるのは理解できない」
 岡添はもう一人の早番のアルバイトだ。店長より少し年上の四十代後半だと聞いているが、頭髪が薄く、老けている。初めて彼に会った時は仰天した。カラオケ店のアルバイトは若者がやるものだというイメージがあったからだ。
 響介は岡添と二度一緒に働いたが、悪い印象はなかった。気さくに話をする、人のよさそうな人物だと思った。
 キレる。それはその人の心のキャパシティを超えてしまった瞬間に起こる。つまりキレた時、その人の器がわかる。しかし一概にそうとは言えないのではないだろうか。育ってきた環境や社会に対する不満、そういったものが根底にあるような気がする。
 例えば、響介は言葉遣いにうるさかった。音楽業界というのは、実は体育会系で、礼儀を重んじる世界だ。初めてライブハウスでライブをした時、世間を知らない十五歳の響介は、サウンドチェックでPA担当のスタッフにため口で指示をした。すると、本番でメインスピーカーから出力される「外音」を出してもらえなかったのである。ライブは友人がビデオカメラに撮っていて、後に事実を知った響介は憤慨した。記念すべき人生初のライブを台無しにされた。しばらくの間、響介は周囲の人間に愚痴を吐き出していた。
『それは西川くん、なんか粗相あったんちゃう?』
 二週間後に出演した和歌山市の歩行者天国の打ち上げで、PAを担当した人にそう言われた。その人の話では、昔バンドをやっていた頃、態度の悪いバンドと一緒にライブをしたことがあるのだが、そのバンドは本番中に照明を落とされたというのだ。媚びる必要はないけれど敬意を忘れてはいけない、その人はそう締め括った。
 ライブハウス側からしてみれば、バンドも客であり、お金を払って気を遣わないといけないというのはどういうことなんだ、と訝しがりながらも、響介は肝に銘じた。照明を落とされてはたまったものではない。
 そうして覚えた礼儀だっただけに、こと言葉遣いのこととなると、冷静ではいられないのだ。音楽業界だったら生きていけないぞ。そんな想いを胸に、注意をしてきた。
 おそらく岡添も、時間を守る、ということに何がしかの背景があるのだろう。三分の遅刻が仕事に支障をきたすとは思えない。意識の低さが許せないのだ。
「気を付けます」
 当たり障りのない返答をして、厨房を抜けた。

     (二)

「ホットコーヒー、二つ」
 ピースサインを反転させた右手をウェイトレスに向けて、智子が注文する。
 その瞬間、荘太の頭に響介が浮かんだ。
『俺、コーヒー飲まれへんねん』
 もし相手がコーヒーを嫌いだった場合、智子はどうするのだろうか。結局はなにを飲むか尋ねて、ウェイトレスに注文の変更を告げることになる。二度手間だ。だけど智子のことだから、「そうなの?」と動じずにそれをするのだろう。そうか、それだけのことだ。
 効率を優先させると物事は作業になってしまう。智子は自分のペースを大事にしているのだ。食後にコーヒーを飲む、というのは決定事項なのだ。
 すごいな、と荘太は智子を見た。他人がいても揺るがない世界観。それだけではなく、そこに他人を巻き込んでしまうのだから本当にすごい。
 ボーカルの方が向いている気がするけれど。
「この前のライブ、感動しました。失礼かもしれませんが、みなさん可愛いのに恰好いい。可愛いと恰好いいが両立できることを知りました」
 ステージに立つ智子を思い出す。華奢な体にベースが大きい。それを自在に操る智子は不思議で、恰好よかった。
「ありがと」
 ウェイトレスがホットコーヒーを運んでくる。テーブルに置き、空になった食器を回収すると、引き上げていった。テーブルにスペースが生まれる。
「じゃあ、見せて。荘太の漫画」
「その前に、聞かせてくれませんか」
 なにを? という単純な表情ではなかった。やっぱり? というばつの悪い様子だった。荘太は動じずに続けた。
「どうして内緒にしてるんですか? バンドのこと。上村さんも知らないんですか?」
 智子は窓外を見つめる。吉祥寺は平日でも人通りが絶えない。自分はどういう風に通り過ぎようか、そんな具合だった。
「知らないよ」
 コーヒーにミルクを注ぎながら、智子は呟くように言った。コーヒーが黒色を失っていく。
「奈津紀とは、バイト先で知り合ったの。あの子にとって、私は居酒屋のお姉さんなの。バンドでベースを弾いてるって話はしたけどね。趣味でやってるってことにしてある」
「どうしてですか? メジャーなのに? それは誇れることではないんですか?」
「メジャーだから話せないんじゃない。居酒屋でバイトしてるメジャーアーティスト、なんて恰好悪くて言えない。荘太も見たでしょ? 私たちのライブ。『鳴子レプシー』とのツーマンライブ。『鳴子レプシー』は同じ事務所のバンド。あれはね、バーターなの。ワンマンライブなんて無理だから。要するに私は売れないミュージシャン。誇れるわけないでしょ」
 弱々しく語った後で、コーヒーを一口飲む。
「七年もやってるのに」
 七年。
 そんなに長い間、メジャーシーンに身を置くなんてすごいじゃないですか。言いかけて、思いとどまる。
『私は、そうね。継続は力なり、かな』
 智子はずっと苦悩しているのだ。なるほど、日本のミュージックシーンは狂っている。
「いつかみんなに話せるように頑張る。だからお願い。それまでは内緒にしておいて」
「……わかりました」
 荘太はコーヒーにミルクを注いだ。

 どれどれ、と智子が目を輝かせながら、漫画の原稿を手に取る。
 荘太の体は強張った。先週、出版社に原稿を持ち込んだ時のことを思い出す。編集者が原稿をぱらぱらと捲る。緊張して喉が尋常ではない程渇いた。ようやっと解放されたと思ったら、「よくわからない」という言葉が耳に飛び込んできて、呼吸の仕方すら忘れそうになった。「登場人物に魅力がない」「物語に起伏がない」言葉が重なっていくにつれて、気持ちが圧迫されていくのがわかった。結局褒められたのはページ数だけだった。持ち込んだ漫画は三十一ページの短編だった。これくらいのページ数は読み切りを描くにあたってちょうどいいから、読み切りを描くなら三十ページ前後が望ましいとのことだった。
 水を一口飲んで気持ちを落ち着かせる。智子は真剣な眼差しを原稿に向けている。編集者とは違い、ごくゆっくりしたペースで漫画を読み進めている。
 あっ、と荘太は気付く。智子の顔をじっくり見ることができるな。
作品名:ディレイ 作家名:宇城和孝